エフェソ4:17-24

心からにされて

 「異邦人」と「あなたがた」との違いは、「異邦人」として生きていたキリストを知る以前のあなたがたと、キリスト者となった今のあなたがたです。パウロは、異邦人つまり、エフェソの人のことをひどい言い方(愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけって)をしていますが、これは、エフェソの町の特性によるものと思われます。アジア州の州都であるエフェソは港町です。そして、ここには、アルテミス神殿がありました。アルテミス自身はギリシャ神話の狩の神なのですが、エフェソのアルテミスは独特のものです。その像をみると卵形の装飾を付けた外衣をまとっており、あたかも「多数の乳房を持つ」ように見えます。小アジア地域の「豊穣の女神」と混交して、このような特異な像となったものと考えられています。港町であり、さらに豊穣の神が祭られている大神殿があるということは、このエフェソの人々のふしだらな行いを想像できるものです。 また、真の神様を知らずにいたことも無知と心のかたくなさを指摘する根拠であります。

1.異邦人の心 あなた方の心

 パウロが、「異邦人の考えが空虚で、心が暗く頑なになっている」というのは、その心が神様に向いていないからです。神様を知らないので、自分の力や考え、知識を自由に用いることができると考えているわけです。その姿から、パウロは「頑な」だと言っているのです。人に命を与えそれを豊かにするのは、これを造られた神様です。その創造の神様を知らない人は、「神様からますます遠く離れ、空虚で貧しいものとなっている」、とパウロは言っています。

 異邦人は、自分では知恵があると思っていますが、愚かであります。滅びることのない神様の栄光を賛美することなく、滅び去る人間や獣に似せた像を礼拝しているのです。それが原因で、異邦人らは心の欲望によってふしだらなことをしていたのです。結局、異邦人らは、神様の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物、しかも人によって造られたものを拝んでこれに仕えたのです。

 ここで取り上げている知識とは、この世をいかに上手に生きていくか?という事ではなく、神様の命に関することです。その知識をどのようにして得ることができるか、パウロはこのように言っています。

『キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ』

全ては、キリストを知って、そしてキリストに結ばれて教えられたことによって得られる知識なわけですから、真理はキリストであるイエス様の中にあるということです。

2.キリストの教えに従って

 パウロが語り掛ける「あなたがた」は、こうしてキリストを知り、キリストに結ばれた人々です。しかし、もともとは、エフェソの異邦人です。急に、イエス様を信じたからと言って、すぐに長年慣れ親しんだ生活が改まるわけではありません。また、いままで通りで何が悪いのか?も理解できていないはずです。ですからパウロはこのように言います。

『4:22 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、4:23 心の底から新たにされて、4:24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。』

 イエス様の十字架によって、私たちはその罪を赦されました。しかし、いくら赦されたからと言って、罪を犯し続けることは、イエス様の十字架の愛にこたえることにはなりません。ですから、もう罪を犯さないようにイエス様に祈り、そして罪の生活から抜け出すべきです。しかし、自分自身が変わらなければ、前と同じように「情欲に迷わされ、滅びに向かって」行くだけです。パウロは、その古い自分をあたかも古い服のように脱ぎ去ることを教えます。そして、新しい人にならなけば、変われないのです。そして新しく着る服は、神様にかたどって作られた新しい人です。すべて、いままで得た知識と常識を脱ぎ捨てて、イエス様を知ることによって教えられた「真理に基づいた正しく清い生活」を送るべきなのです。古い人は、イエス様が十字架につけられたことによって、イエス様とともに十字架につけられました。こうして私たちの罪は、贖われたのです。ですから、もう古い人を着ようとしてはいけません。古い人は、イエス様と一緒に十字架につけたままにしておけばよいのです。神様の怒りと呪いによる死は、罪ある私たちの古い人を身代わりとしてさしだすことで、赦されたのです。ですから、イエス様の十字架によって救われたと信じて、バプテスマを受けたなら、その古い人は、イエス様の十字架と共に死んだはずです。そして、いま生きているのは、私たちの罪のために十字架で死んだイエス様です。イエス様が死を克服して、復活されてまさしく救い主キリストであることを明らかにされました。私たちは、その救いの恵みに共に与って生きていく以外はありません。もし、私たちがイエス様を神様であると信じて告白するならば、そのイエス様の真理を愛するなら、「自分の罪と過ちに死んでいた」以前の生き方、滅びに向かっている古い人の生き方を棄てなければならないのであります。

 この箇所の言葉は、救いはただ神様の自由な選びによって、イエス様の十字架の贖いによって与えられる無償の愛によることを強調しています。神様の賜物なのです。そして、「私たちは神に造られた」者であり、「キリスト・イエスにおいて造られた」者なのです。私たちは、そのイエス様に教えられた、「善い業を行って歩む」者とされるために、まだこの天地を創造する前から、計画されていたのです。

 聖書は、「人が神のかたちに似せて造られた」といいます。キリストのもたらす救いは、罪によって善い業ができなくなっている神様のかたちが崩れてしまっている人間を、新たに神様にかたどった「新しい人」に造り直した出来事であります。イエス様を信じて告白し、バプテスマを受けた私たちは、「キリストを着ている」という恵みに与っているのです。

 イエス様から真理を学ぶということは、「神様にかたどられた新しい人キリストを着る」という意志を明らかにし、行動を持って表すことです。私たちは、キリストを着る者として古い人を脱ぎ捨て、キリストを着る者に相応しい善い業を行なって歩む者となりたいのです。私たちにはできませんが、イエス様は私たちをそういう素晴らしい存在へと変えてくださるのです。私たちは、この恵みに生かされている喜びを、その恵みに与るに相応しいものとしての歩みを表すべきなのです。これが神様の示された本当の知識、愛する心を与えられているキリスト者の生き方であります。