コリントの信徒への手紙一2:1-16

神の霊による啓示


 パウロは、コリントで伝道するその直前にはアテネで伝道を試みました。結果は大失敗。アテネの人々は、学問的な興味でパウロの言葉を聞きました。しかし、十字架の言葉を聞いたほとんどのアテネの人々は、立ち去りました。

使徒『17:32 死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。17:33 それで、パウロはその場を立ち去った。17:34 しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。』


1.十字架につけられたキリスト

『2:1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。』 

コリントの教会が一致していなかった原因は「知恵」であり「知識」でした。ギリシア哲学が盛んだった当時のコリントの教会の信徒は、「知」に偏り過ぎる傾向がありました。それが派閥争いをもたらします。

 パウロがコリントに福音を伝えた時のことを思い出します。

 アテネのギリシャ人は、知的な言葉も十字架の言葉も受け入れられず、コリントではユダヤ人に拒絶され、異邦人への伝道を決意しました。しかも、この時はシラスやテモテは、テサロニケにいて、合流できていません。だからでしょうか? たいへん弱っていました。しかしそのような時だからこそ、神様がパウロを助け、結果多くの人たちの心を動かしたのです。頼るべきは、人の知恵ではなく、神様の力なのです。

『2:4 そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。2:5 それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。』

そして、神様は、私たちが弱い時にこそ働かれる方なのです。また、神様はパウロがアテネでしたような「人の知恵で説得しよう」というのではなく、神様ご自身の力で人々の心を動かされるお方であります。


2.神の霊による啓示

 「人が、想像し、解読できるようなものではない」 知恵が、神様にはあります。

『2:8 この知恵を、この世の支配者たちは、だれ一人知りませんでした。もし知っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。2:9 しかし、このことは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないものを、神は、神を愛する者たちに備えてくださった」と書いてあるとおりでした。』

これは、イザヤ書から来ています。

『64:3 あなたを待つ者に計らってくださる方は/神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も/目に見た者もありません。』

 イエス様が神様ご自身であり、救い主だということを人々の知恵で理解できるなら、イエス様が十字架に掛けられることはなかった とパウロは言います。そんな誰も想像できない方法で、神様は私たちに救いをもたらしてくださったのです。

『2:14 自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。』

 では、私たちはどうやって神様の知恵を知り、理解することができるのでしょうか? それは、神様の霊である聖霊が私たちの内に宿り、私たちがその霊によって応答するときです。人の知恵ではできないのです。しかし、私たちは日々の生活の中で、神様から知恵をいただき、御霊の働きによって判断を促されることができます。そのために必要な事は、「私たちが自分自身の十字架を背負い、自分に死んで神様に聴き従うこと。」であります。

『2:16 「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。』

 私たちは自分の知恵に頼るのではなく、いつも神様の知恵を受け、イエス様を通じて神様の知恵により頼んでいく事を心掛けたいものです。