コロサイ2:6ー10

キリストに結ばれて

2020年 9月 6日  主日礼拝

『キリストに結ばれて』

聖書 コロサイの信徒への手紙 2:6-10           

  

 先週は、教会の総会がありました。私自身、この教会に着任して初めての総会で、戸惑いもありましたが、ご協力を得ながら乗り越えられたと感謝しております。今回は、いろいろな事情があって8月末に予算を出しましたが、教会の規則によると、2月末までに活動計画が必要ですので、そのようにしていきましょう。予算の規模が小さいため、活動内容の自由度はあまりないですが、重点を置く活動を決められたらと考えます。そのためには、12月までには主な活動の変更したいところを話し合いたいと考えます。ただ、時間が限られていますから、今年と、来年度までは、皆さんとの話し合いを持って、これからのこの教会にあった活動を考えていく、そういう時としたいと思います。

 

 それから、9月は連盟のカレンダーによると教会学校月間です。連盟からも「教会教育室だより」が来ていましたので、掲示板に貼りました。残念ながら、コロナの影響で今年は連盟主催の研修などがなくなったり、また各教会でも教会学校を休止していますので、教会学校の活動は広がっていません。皆さんにも、現在休止している教会学校をどのようにしたらよいのかを、考えていただけたらと思います。そして、再開のために祈ってください。牧師の個人的な意見ですが、「聖書」を4年くらいかけて、全体を把握できるように学ぶプログラム(例えば聖書教育の活用)を基本にして、「ひごろの出来事の分かち合い」を引き出すのが良いと思います。そういったことを、皆さんの意見を出してもらって、検討していくようにしたいです。

 

 今日は、コロサイの信徒への手紙からです。パウロがローマの牢獄の中で書いたとされていて、「獄中書簡」とも呼ばれます。コロサイとは、今のトルコの東側で、エフェソの町とアンテオキヤの町の間くらいにあります。パウロは伝道旅行で、コロサイを通ったかもしれませんが、コロサイで伝道したという聖書の記事は無いようです。そういう理由から、パウロが問題を抱えているコロサイの教会のことを知って、筆を執ったのでしょう。関係する聖書記事を読んでみると、イエス様の教えと異なる教えをする者がいたり、伝統的なユダヤ教の習慣を異邦人に勧めるものがいたりと、コロサイの教会は混乱していたようです。

 

パウロが今日の聖書の個所で言っているのは、「主イエス・キリストの教えに聞いて、あなたの信じたイエス様と共に歩みなさい。」ということであります。イエス様の教えを聞いて信じたコロサイの信徒は、他の先生の教えも同じように聞いていたのです。パウロが伝道した「イエス様の教え」と異なる教えが入ってきたわけです。そこでパウロは、「イエス様を信じているその信仰を感謝しなさい」と強調します。イエス様への信仰を感謝していれば、だれでもイエス様の教えどおりに歩もうとするからです。そして、イエス様の教え通りに歩もうとしている事こそが、イエス様への感謝を感じる事なのです。

 さて、私たちはそのイエス様への感謝を、どのようにして表しているのでしょうか?今、私たちクリスチャンは、どんな「信徒生活」をしているのか?ということだと思います。そのように、聞かれれば、「聖書を読む」「礼拝を守る」「祈る」「献金をする」「伝道をする」等の基本を答えるでしょう。加えて、「教会学校で教える」「訪問をする」「交わり」などの、活動が挙げられるでしょう。そして、「いつも笑っていなさい」「クリスチャンらしくしていなさい」などという、自分が喜んでいることも挙げられてくるでしょう。しかし、パウロが言いたかったことは、初めてイエス様を信じた、その信仰のことです。純粋に、「イエス様に救われて喜んだ」その感謝が大事だということです。それが、いろいろな先生や仲間たちの言葉を聞いていくことで、信仰が育つ反面、偽の教師の教えや人間的な付き合いで、かえって救われたことへの感謝が薄くなっていくのでしょう。いつの間にかイエス様との関係が遠くなっていくのです。例えば、人との関係に気を取られ始めると、目に見えない信仰ではなく、「行い」などで「人にどう見られているか」に力を入れてしまうのです。そうすると、イエス様に感謝して、喜んで奉仕しているはずなのですが、奉仕が苦しくなってしまうこともあります。それでも、「喜んで奉仕している」という「目に見える部分」で頑張ってしまいます。それはイエス様のことを見失っている様な、心の中の混乱だと思います。

 パウロは、この混乱について戒めています。

「あなたがたは、イエス様を受け入れたときのように、イエス様に聞きしたがって歩みなさい」。そして、「感謝」しなさい。とパウロは言うのです。

「イエス様を受け入れた時」、そこには、イエス様と歩む喜びがあったはずです。そして、その歩みのあいだの平安とその結果に感謝であふれていたはずです。ですから、イエス様からの教えをしっかり受け取ろうと、イエス様のみ言葉に飢えていたはずです。パウロが、このようなことを言う理由は、「最初のころの感謝を忘れているのではないか?」との心配です。「信仰を頂いたころのイエス様への感謝を思い出しなさい」とのアドバイスです。そして、コロサイの教会の人々がそのころの感謝を思い出すならば、「信仰を固く保てる」とパウロは信じていたのです。

 コロサイの教会の混乱は、このころのキリスト教のあった環境に原因があると思われます。当時のキリスト教は、まだユダヤ教の中の一つの群れでした。そういうわけで、キリスト教もユダヤ教の伝統的な教えを大事にすることは同じですが、異邦人が多くいるコロサイの信徒に対しても「ユダヤ人のようにしなさい」と勧める人がいたようです。パウロは、今のシリア、トルコそして、ギリシャで伝道に励みましたから、当然その伝道の対象者はユダヤ人以外も多かったわけです。パウロは、イエス様への信仰から、福音を述べ伝えたのですが、決してユダヤ人と同じになりなさいとは教えていたわけではません。しかし、パウロの教会の中には、ユダヤ教の伝統を大事にする人もいましたから、ユダヤの人々と同じようになることを勧めたわけです。具体的には、異邦人にも割礼をするように勧めたわけです。一人一人の信仰は、イエス様との出会いと、その後の歩みで違うのですが、一人の信仰の先輩として、自分と同じようになることを勧めたのでしょう。しかし、信徒は皆人一人違うのです。皆が同じでなければならないということも、ありません。イエス様を信じる群れであるということが同じであれば、充分すぎるほど感謝なことです。イエス様を信じる者の群れにそれ以上に必要なことはないのです。


 教会では、イエス様を信じる事以外は、それぞれの信仰や育ってきた環境の違いを認め合うことが必要です。人それぞれが違っていて良いという前提があれば、同じであることを「強制」する必要がなくなるからです。

人は、周りが同じだと安心するものですから、同じでない人が周りにいると、同じになるように働きかけてしまいます。そうして、だんだんと違いを認めなくなってきます。そうして、イエス様のみ言葉にないことまで、同じ考えや行動を要求するようになってきます。そうなると、違う考えや行動をとる人は、無理に同じになるか、離れていくかを選ばざるを得なくなります。つまり、イエス様にではなく、人に仕えるという落とし穴が、そこにあるわけです。その、悪魔の罠に陥らないためにも、イエス様を信じたころの信仰に立ち返って、イエス様と共に感謝の生活を選びたいのです。このことは、パウロの時代起きていたことですが、今の教会にもそのまま当てはまる出来事だと思います。

 パウロは、「キリストに根を下ろして」と表現をしていますが、イエス様にではなく、人に仕える生活では、イエス様に根を下ろしたことにはならないということを警告していると思います。木が土をしっかり握りしめて風の強い日でも立っていられるのは、根が土の中に深く入り込みながら成長するからです。もし、私たちが木であったならば、命を守るために精一杯土の中に根を伸ばすことでしょう。信仰生活でも、一緒で「キリストに根を下ろして」霊的に成長することがまず第一なのです。イエス様を信じたことへの感謝は、この「キリストに根を下ろして」いる状態でこそ、感じることだと思います。

 

 またパウロは、もう一つ哲学についても、激しい口調で注意をしています。今も哲学というと、神学や科学などの学問よりも上位にあるものとされています。それは、物の本質とか精神の本質という根っこの部分に取り組む学問だからだと思いますが、特に哲学が優れているという意味ではありません。しかし、パウロは哲学に対しては強い言葉で批判して、「人の言い伝えに過ぎない哲学」とまで、言っています。当時は、神学も哲学の一部分でありましたので、パウロはイエス様の信仰について哲学者にも話しています。残念ながら、その成果はあまりなかったようです。パウロが話す信仰、イエス様との体験があってこその信仰は、哲学者には受け入れられなかったのです。そのようなこともあったので、パウロが言いたかったことは、真実は哲学にではなく、イエス様にあるということだったと思います。「哲学は人の考えたものであって、イエス様から出たものではない」ということなのでしょう。イエス様に従えば、神様の存在がわかるのに、哲学は人の言葉をならべて神を証明しようとするのです。もちろん、神様の存在を証明することは、きわめて困難なのです。だから、パウロは、哲学の教えなどには、惑わされないよう、キリストに従うよう忠告するわけです。


 哲学のことを「むなしいだまし事」とパウロは言いましたが、少なくとも、人の作り出したものにすぎないとの意味だと思います。神様は何もないところから天地を想像されましたが、哲学者は同じように何もないところから「物事の真理」を追究するわけです。しかし、「物事の真理」は神様が天地を想像されたときにすでにできています。出来てしまっているものを哲学者や科学者は、読み解いているのです。決して哲学者は、神様の様に創造はできないのです。いろいろな仮定をしては、論理的または実験的に検証することで、「物事の真理」の一部を読み取っている。それが、神様ではない哲学者や科学者の現実かもしれません。ですから、パウロから見れば、哲学者が言うことは、「むなしい」、「真理ではない」と見えたのです。だから、哲学では神様を理解することができません。しかし、「イエス様を信じて受け入れると、神様が少しずつわかるようになる」のです。

 

 9節で『キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、』ということも同じです。イエス様を受け入れた人にはわかるのですが、信仰がなければ「見える形」はないはずです。イエス様にしっかり根付いてイエス様と共に成長している人だからこそ、「イエス様は神様」とわかるということです。

 

 コロサイの教会が多様な人々に伝道をした結果、それぞれの権威 例えばユダヤ教の先生、哲学の先生、エルサレムの教会からの信徒へのお勧めがあったのでしょう。こんなときに、「だれが正しいかをじっくり考えて選ぶ」などということをしたならば、それは「キリストに根付いている」とは、言いにくいです。よく考えてみると、人を見ているのですね。「だれが正しいかをじっくり考えて選ぶ」ことは、冷静で良いことのようにも見えますが、信仰的には、まずイエス様が中心にいなければなりません。

 パウロは、だれの言葉に従うか迷っているコロサイの教会に向けて、「キリストに結ばれて」歩むこと、信仰をイエス様から頂いた時のように感謝して、イエス様と共に歩むように手紙を出しました。実際似たような教会の混乱は、あちこちで起きていました。パウロは、その原因を知っていたのです。皆がイエス様を中心に考えていれば混乱はしません。そして、世の権威とは、イエス様でしかありえないのだと、だから権威のありそうな人にではなくイエス様に従うようお勧めをしたのです。

私たちも、この世の権威にではなく、イエス様に、しっかり根付いて従ってまいりましょう。そうやって教会は、イエス様によって育てられてきたのです。