2021年12月 5日 主日礼拝
「イザヤの預言」
聖書 ルカによる福音書4:14-24
今週は、アドベント第二週です。ろうそくも5本の内2本に火がともっています。先週は預言者のろうそくに火が点き、今週は天使のろうそくが点きました。来週は羊飼いのろうそく、そして再来週はベツレヘムのろうそくを灯します。そして、真ん中のろうそくはイエス様のろうそくです。今日は、アドベントにちなんで、ルカによる福音書とその元となっているイザヤ書からイエス様の預言をお話します。
まず、イザヤですが偉大な預言者であることはご存じだと思います。特にイザヤ書の40章以降は、第二イザヤと呼ばれていて、救い主が来られる預言が書かれています。今日の聖書の箇所でイエス様が読んだイザヤ書は、61章1節の所です。これは、週報にも「転記」しましたので、比較してみてください。
イザヤ『61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。61:2 主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰め』
このイザヤの箇所で戸惑うのは、「わたし」です。誰なのでしょうか?もちろんイザヤではありません。「主は言われる」とつづるイザヤ書では、だいたい聞き手側がイザヤだからです。そして、話し手側に、主ではない「わたし」がいて、油を注がれたわけです。そうしますと、「わたし」とは、油を注がれた者と呼ばれる「預言者か王様」であることがわかります。また、「主」とあるのは、元のヘブライ語での言葉はヤハウェですから、神様の名前そのものをさしています。油を注ぐのは、祭司や王を任命するときのユダヤの伝統的な儀式です。注ぐ油は、純粋なオリーブオイルです。そして、油を注がれて聖別された者のことをメシアと呼びます。メシアとは、ヘブル語で「油を注がれた者」という意味の言葉(メシャー)そのものです。また、メシアのギリシャ語訳がクリストス(Χριστός:元の言葉は、χρίω –聖霊の流れを表現するために誰かにオリーブオイルをこすったり注ぐことによって油を注ぐこと。)です。日本語では「救い主」と訳されています。この油を注ぐという行為は、聖霊が働いて、任命し、聖別するという、神様によって決断され、実行される行為です。
その理解から、イザヤ書の61:1は、この様に読めます
「ヤハウェの霊(聖霊)がわたしに臨んだ。ヤハウェはわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることを委ねるために。」
そうすると、「わたし」はイエス様のことだとわかると思います。イエス様は、旧約の時代に生きた預言者イザヤに向かって語っていたのです。それは、「ご自身におこる将来のことを」イザヤに託した言葉だったたのです。
さてイザヤ書ですが、北イスラエル王国がまだあった時代(BC922~721)、南ユダ王国の民を導いた預言者です。歴代の王たちが罪を犯してばかりの中で、神様はユダの灯火(ともしび)を消さないために、預言者を何人も遣わしました。しかし、歴代の王たちの多くは神様に立ち返りませんでした。そのために神様はさばきを下されました。北イスラエル王国はBC721年にアッシリア帝国によって滅ぼされ、ユダ王国もBC607年以降、三度に渡りバビロン帝国によって捕囚され587年に王国は消滅しました。イザヤは北イスラエルが滅ぼされようとしていたそんな時代に、ユダ王国で預言者として活動しました。当時の直面していた危機はアッシリアやアラム等の周辺諸国からの侵略でした。アハズ王の時、ユダは北側の三つの国から同時に攻められようとします。イザヤは、神様の命令によって、アハズ王に伝えます。「慌てることは無い」とですね。そして「神様のしるしを求めるように」伝えました。これは、「神様が奇跡的なことを起こすから任せなさい」という意味だと考えて良いでしょう。
しかし、当時の王であるアハズは、イザヤの警告を聞こうとしませんでした。イザヤは、このときイエス様のことを預言したのです。神様のしるしが、必ずこの場所に起こされると言うわけです。この預言は、逆説的でもあります。つまり、救いが来る前に先に滅びが来るからです。あまりにも、アハズ王が聞いてくれないので、ユダの滅びは確定したということでしょう。確定してしまった滅びについて今更告げても仕方が無いので、その後の希望をイザヤは告げたのです。
イザヤ書『7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。』
そのしるしは、処女から生まれ、インマヌエル(神が我々と共におられる)と呼ばれ、神の霊を与えられ、人々の罪のために苦しみを受けるおかたとして預言されました。このことをイザヤに語ったのは、まさしく神様である主イエス・キリストです。この預言がされた約700年後にイエス・キリストはお生まれになりました。そして預言通りにお生まれになったイエス様は、イザヤ書のこの預言の箇所を会堂で朗読しました。それが、今日の聖書の物語です。
イエス様はガリラヤ地方を巡って教えていました。そして、尊敬を集めていたのですが、イエス様が育った場所、ナザレでのことです。イエス様は、イザヤ書の61節、62節を読みました。「イザヤの伝えた預言は、まさにご自分のことである」と宣言されたのです。しかし、63節以降は読まれませんでした。そこには、破壊されつくしたエルサレムが、その救い主によって新たに建設されるとの預言が書かれています。
『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』とイエス様が宣言しました。それは、メシアがすでに来ていることを知らせるものでした。しかし、「イスラエルの救い」は、救い主であるイエス様を信じていないナザレの人々の心の中には、まだやって来ていません。そんなわけで、イエス様は、あえて2節しか読まれずに座られたのだと思われます。イエス様は、イスラエルがキリストの福音をすぐには受け入れないことをご存知だったからだと思われます。実際に、イエス様がイザヤ書を2節だけ読んで、「今日、この聖書のことばが実現した」と宣言されると、人々は大変驚きました。救いが今やって来ているとの恵みの言葉をイエス様が教えることに驚いたのです。しかし、伝説によると、救い主はダビデの子孫でありベツレヘムに生まれるはずです。そして、救い主はユダの王様であるはずです。それにまた、ナザレで育ったイエス様ですから、ナザレの人々はみなイエス様がヨセフの子であることを知っていました。ですから、イエス様のその宣言に、「信じられるものか」と言う意味で驚いたのでした。また、「この人はヨセフの子ではないか」と言って拒んだ人々は。イエス様を受け入れようとも、イエス様の恵みに与ろうとしませんでした。
そのナザレの人々に信仰が無いことを見て、イエス様はナザレの町では「しるしをしなさいと言われても、できない」と宣言されます。
『はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。』
こうイエス様は言って、過去の預言者の例を挙げます。どの預言者が送られてきても、イスラエルの人々は受け入れずに、神様に立ち返ってこなかったのです。その話をイエス様から聞いた人々は怒りだしてしまいました。
このようにしてイエス様は、ナザレでは受け入れられませんでした。この時の人々のように、多くのイスラエルの人々はイエス様の福音を受け入れませんでした。ですから、イエス様の十字架の出来事と復活があった後であっても、イエス様の恵みによって祝福を受けずにいる人々がいるのです。そういうわけで、イエス様の福音を受け入れていない人々には、イザヤが預言した祝福を受け取ることが出来無かったのです。そして、実際にイスラエルの国は、破壊され、人は散らされてしまいました。まだ、神様の国イスラエルの再建は、まだ確立されていないことになります。しかし、それでもイエス様を信じ、イエス様の福音を伝える者の中には、イエス様の恵みと平安がすでに来ています。そして、すべての人々がイエス様の福音を受け取る日を夢見て、伝道をする。そうすれば、聖書の預言は必ず成就するのです。その時には、イスラエルを回復し祝福されますが、その時には、イエス・キリストが再臨されるのです。
神様であるイエス様は、イザヤにご自身のご計画の多くを示されました。イザヤはキリストの誕生、その宣教、十字架の死、そして勝利と栄光、さらにイスラエルの回復、キリストを信じる全世界の人が受ける祝福と恵み、そして回復された王国の様子までをも預言しました。その多くの重要な預言を神様から受け取ったイザヤは、神様に心から従順であったと思われます。
イザヤの生涯は、決して順調なものではありませんでした。宣教しても悔い改めないイスラエルの人々からは、迫害を受けました。しかし、どのような事があっても、イザヤには平安があり、そして、喜んでいました。神様の御言葉とご計画を知り、それを信じて、イスラエルの民に伝える役割を担っていたからです。
さて、今の時代を生きる私達イエス様を信じる者には、イザヤ以上に明確に神様のご計画が示されています。イエス様がすでに地上に来られ、十字架で私たちの罪を贖って下さり、赦しと永遠の命が与えられていることを知っているからです。多くの人が福音を語り、今の時代にその教えが伝わりました。そのおかげで私たちは、聖書を学び、神様の永遠のご計画を知ることが出来ました。これは、なんという恵みでしょう。今、アドベントを迎え、イエス様が降される時を感謝してお待ちする時期となりました。イエス様の恵みがこのような神様のご計画で与れること。そして、わたしたちもそのご計画の中に入れられ、そしてこの教会の群れに導いて下さっている事。その感謝をもって、クリスマスを迎えてまいりましょう。この様にして、神様はイエス様が来られる前から、私たちを招くために、預言者たちをこの世におくって、そして準備されていたのです。
与えられたその祝福にあなたも私もあずかっていることを感謝して、すべての人が福音に与れるよう祈って参りましょう。