使徒2:22-36

 聖霊によって語る

2021年 5月 30日 主日礼拝

聖霊によって語る
聖書 使徒言行録2:22-36

 

おはようございます。先週は、聖霊降臨日の礼拝を守りました。聖霊が降ることによって、弟子たちが色々な言葉で、聖書を解説し、イエス様のことを語りだしました。当時のエルサレムには、沢山の外国語を話すユダヤ人たちが帰ってきていました。それは、第2代ローマ皇帝テベリウスが、ローマからユダヤ人を追い出したからです。歴代のローマ皇帝は、ユダヤの民を迫害しました。聖書にも、第4代ローマ皇帝クラウディウスが、同じことをしたことが載っています。

使徒『18:2 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。』

 ローマからユダヤ人が追い出されるということは、広い意味で言うと、地中海沿岸を中心としたヨーロッパおよび北アフリカ、そして小アジア、シリア、ペルシャあたりから追い出されるわけですから、行き先を失ったユダヤ人たちの多くは、母国に帰ってきていたという事です。そういう事ですから、エルサレムにはいろいろな国の言葉を話す人々が集まってきていました。

なぜローマ皇帝が、ユダヤ人を追い出したのかと言いますと、ユダヤ人は皇帝を礼拝しないからです。ローマ皇帝は、自らのことを神と名乗り、礼拝させていました。それは、宗教を統制する目的ではなくて、ローマ皇帝への服従を表明させるのが目的でした。ユダヤ人は、当然ローマ皇帝を神として礼拝するはずがないのですが、地域によっては、格好だけ取り繕って、追放を免れていました。ユダヤの歴史家ヨセフスのユダヤ戦記やユダヤ古代誌によると、このようなユダヤの人々にとって受け入れがたい出来事が書かれています。

・BC20年、ヘロデ大王がオクタビアヌス帝に捧げる神殿を建設。

・AD6年、大祭司の式服がローマの管理下に。

・AD19年、テベリウス帝ユダヤ人たちをローマから追放。

・AD26年以降、ピラト カイサルの胸像の付いた軍旗をエルサレムに持ち込む。

ピラト エルサレムの水道工事のためにエルサレム神殿の金(gold)を使う。

 

ユダヤの国を治めるにあたってローマは、ユダヤの神様を礼拝する事は禁止していませんでした。しかし、代々のローマ皇帝は、皇帝の像を礼拝する事を強制し、従わない者はローマから追放したのです。そうすると、ヘブル語(アラム語)を話せないユダヤ人がユダヤの国に戻って来るわけです。加えて、ユダヤ出身ではない異邦人の改宗者や主を恐れる者(改宗はしていないが、ユダヤ教の神を礼拝する者)も皇帝を礼拝しませんから、そういった外国語しか話せない人がたくさんエルサレムの町に、集まって来ていました。そういう時に聖霊が降ってきて働きはじめたのです。こうして、イエス様の弟子たちは色々な国の言葉で聖書を解説し、そしてイエス様を証しする機会が与えられたのです。

 

今日は、ペトロの説教のお話です。イエス様の十字架の出来事を通して、自らの弱さを知ったペトロですが、この時から大胆にみ言葉を語りだします。聖霊に押し出されて語られたペトロの言葉は、多くの人々の心を動かしました。その成功の様子がこのような記事に残されています。

使徒『2:41 ペトロの言葉を受け入れた人々はバプテスマを受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。』

このペトロの説教ですが、たいへん大胆でした。そして、こんなにも強いメッセージです。

『2:36 ~あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」』

このような話ですから、かなりの勇気が必要です。このとき、ペトロは聖霊によって力が満たされていたのだと思われます。

ペトロがその結論に至ったのは、群衆も知っている出来事と聖書からでした。ペトロはイエス様に祈り求めた結果、この結論に達したのです。

 

ペトロの結論は、神様のご意志について、この様に信じたことです。

「イエス様があなた方に引き渡されて十字架につけられたのは、神様の御計画でした。そして、イエス様は殺されましたが、神様はイエス様を復活させました。」

ペトロは、イエス様を十字架につけることに加担した群衆に向かって、群衆のやったことを責めたのではありません。伝えようとしたのは、旧約聖書の時から預言されていた救い主のことです。神様は、計画されていたとおりに、救い主であるイエス様をこの世に降されたこと。そして、神様のご意志で、イエス様は一度犠牲になったのち、復活して、そして今生きておられるという事を証ししました。

 

ペトロは、2つのダビデの賛美から、イエス様の出来事を語りました。

(1つ目:使徒2:25-28)

詩編『16:8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。16:9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。16:10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず16:11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。』

(2つめ:使徒2:34-35)

詩編『110:1 【ダビデの詩。賛歌。】わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」』

 

先に詩編110編の説明が必要です。主と訳している最初の主は、イエス様のことです。そして、言葉を賜った主は、(ヤーウェの)神様です。そして、そこにはダビデがいて、その言葉を聞いているのです。その構図を頭に浮かべてください。神様がイエス様に言った言葉は、『わたしの右の座に着け。2:35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。』 です。

神様の右の席は、神の御子の席です。神様は、イエス様に敵対する者をイエス様の足の下に置くまでのあいだ、その席に着くように言ったのです。

 そして、同じ構図を浮かべながら、ペトロの最初に引用した聖書(元は詩編16:8-11ですが、日本語になった訳文としては使徒2:25-28が正確です)を読み取ってみましょう。ここで出てくる主は、(ヤーウェの)神様です。ダビデは神様と向き合っているので、向かって右側が神様、そして向かって左側がイエス様の位置です。ダビデはこの箇所で、神様と向き合っている事の喜びと希望を歌います。そして、『あなたの聖なる者』とは、イエス様のことです。ダビデは言いました、「神様はイエス様を墓の中で朽ち果てるままにはしておかれない」。ペトロはこのように、詩編のダビデの歌から、イエス様が復活されるとの預言を読み解いて、群衆に話したのです。

また、ダビデは、神様がダビデの子孫の一人にその王座につかせることを知っていました。その根拠は次の詩編となります。

 

詩編『132:11 主はダビデに誓われました。それはまこと。思い返されることはありません。「あなたのもうけた子らの中から/王座を継ぐ者を定める。

132:12 あなたの子らがわたしの契約と/わたしが教える定めを守るなら/彼らの子らも、永遠に/あなたの王座につく者となる。」』

 

そしてダビデは、イエス様が復活されることも、知っていました。ですから、ダビデの歌には、『あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。』とあるのです。ペトロは、いまその時を迎えたと理解しました。神様がご計画通りに、そしてダビデが預言した通りに、その十字架と復活の業を進められたのです。

ところで、ペトロの活躍した時代には、ダビデの墓があったようです。ですから、ダビデが実在した人物でその墓もあるということは知られていました。ペトロは、ダビデとイエス様を比較して、ダビデは偉大な王であったけれど、死んで今は葬られている。それに対して、ダビデが主と呼んだ救い主は復活なさったのだと。そのようにペトロが「証し」をしたのです。

 

ペトロは、ここまでの歩みの中で、復活されたイエス様と会っています。そして、約束通りに今聖霊を注がれて、聖霊から力を頂いています。ペトロの話を聞く群衆も、その場面・場面でイエス様の業に立ち会っていました。しかし、そのことが「聖書に書かれている」預言と、繋がっていなかったのです。そこでこのように、聖書の預言と起きた出来事が一致することをペトロは説明します。そして、預言者であったダビデの言葉を、ペトロは繰り返し語ります。

神様が神の子に言った言葉は、『わたしの右の座に着け。2:35 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。』・・・つまり、ダビデは神様の前に神の子といっしょにいて、神様の言葉を聞いています。預言者ダビデは、そのことを書き残していたのです。そして、その神の子こそがイエス様であると、ペトロは力強く「証し」しました。

使徒『2:36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」』

 

こうして、ペトロは説教を終えます。群衆は、ペトロの言葉を聞いて信じました。ペトロは、どうしてこのように語れるようになったのでしょうか?イエス様と行動を共にしているときには、イエス様に教えられながらも、十字架と復活のことを理解できていなかったペトロです。そして、十字架の出来事の時には、捕まるのが怖くて逃げていたペトロが、こんなにも大胆に語り、そしてその証と説教は群衆に受け入れられたのです。

不思議なほどの働きぶりです。イエス様は、この場面のほんの10日前に天に昇られました。このペトロの働きでイエス様ご自身がこの場で語られる必要はなかった様です。そして、弟子たちに聖霊を注ぎ、弟子たちをキリストの証人としたのは、神様のご計画でした。「死人が復活した」などという普通に考えたら ありえないことですが、神様は弟子たちに聖霊を注ぐことによって、弟子たちにそれを語らせ、そして力強い証しとされたのです。そして群衆は信じました。

 

『2:32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。』と ペトロは力強く語ります。

この10日前。イエス様が天に昇られる時、イエス様がおっしゃっていた

使徒『1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」』

という言葉が今ここで成就したのです。私たちも、聖霊を頂いてキリストの証人となりました。この恵みに感謝して、イエス様の「証し」をしてまいりましょう。