ヨハネ13:12-30

 イエス様は待っている

2022年 11月 13日 主日礼拝

イエス様は待っている

聖書 ヨハネによる福音書13:12-30

今日の聖書、イエス様が弟子たちの足を洗ったと言う記事、それにイスカリオテのユダの裏切りの記事から み言葉を取り次ぎます。イエス様は、過越しの食事にはいる前に、上着を脱いで、腰をかがめて弟子の足を洗いました。奴隷がするように弟子たちに仕えたのです。イスラエルの人々は家の中では、ほとんど土足です。土足で家に上がるので、家が汚れないように丁寧に履物と足を洗う必要があります。必要なこととは言え、人の足を洗うとなると、足元にかがみこんで相手にへりくだり、汚れをぬぐい取るという作業であります。そういう意味で、人の足を洗うということはその人に仕えるようでもあります。ですから、とても目上の人に足を洗ってもらうわけにはいきません。それなのに、イエス様は自ら進んで弟子たちの足を洗いました。イエス様は、最後の晩餐を前に、弟子たちの足を洗うことを通して、弟子たちに仕えたのです。このイエス様が仕える姿は、十字架の犠牲とも重なります。最後の晩餐のあと、祭司長たちにつかまったイエス様は、最も残酷な刑である十字架刑によって、全人類のためにいのちを献げることになります。イエス様が弟子たちの足を洗ったことは、イエス様が弟子たちに仕える最後の機会でもありました。また、イエス様が弟子たちに仕える姿を見せることによって、弟子たちのこれからの生き方の模範を示したと言えます。お互いにへりくだって、愛をもって仕えあうようにとの命令なのです。

この時、イエス様は分け隔てなく、12弟子の足を洗いました。働きの良い者、悪い者、教えを理解している者、理解していない者の区別はありませんでした。そして、イエス様を裏切ろうと決意を固めていたユダにでさえ、同じように足を洗ってあげます。イエス様はすでに、ユダが裏切ろうと決めていたことを知っていました。しかし、イエス様はその裏切るだろうユダにも仕えたのです。このことは、十字架の愛による  としか説明できせん。罪を犯した者やこれから罪を犯そうとする者も十字架の愛の対象なのです。そうでなければ、私たちは救われなかったのです。事実、イエス様は罪人を招き、そしてイエス様が十字架で犠牲となって、私たちの罪を贖われました。イエス様は、すべての人々を招きましたから、私たちも今救いに与っているのです。


 さて、過越の食事ですが、当時の食事風景を想像して見ましょう。椅子に座っての食事ではありません。背の低いコの字型の食卓の外側から、食卓に頭の方を向けて、左肘をついて横になって、右手で食べます。

 席についたイエス様は、食事の最中にこのように言います。

『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』

 この言葉に、『13:22 弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。』とあります。

 席順は決まっていたと思われます。晩餐では、主人であるイエス様がその場の中央の席に着くのは当然です。そして、次の席はイエス様の右側(向かって左側)です。今日の記事を見ますと「イエスの愛しておられた者」がイエス様の隣にいますから、ヨハネが右か左にいたのでしょう。

 そして、もう一つあるイエス様の隣の席にいたのは誰でしょうか?すぐ思いつくのはペトロですが、どうもそうではないように思われます。なぜならば、『シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。』とあるからです。この弟子とはヨハネのことです。ヨハネは、ペトロの合図を受けてイエス様に小声で聞きました。

『13:25 その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、』 とあります。

 この部分でヨハネの席が左右どちらなのかがわかります。先ほど説明しましたが、左肘をついて横になるという姿勢です。ですから、イエス様の胸元に寄りかかれるのだから、ヨハネはイエス様の右(向かって左)の席にいることになります。さらにもう一つのヒントがあります。イエス様を挟んで右にヨハネ、そして左にペトロがいたならば、ペトロは背中を向けているヨハネに合図することは困難です。それで、ペトロはイエス様の左隣にはいない事になります。

 そして付け加えますと、聖書で約束なのは、右が義しい側であり、左が罪や悪を象徴していることです。ユダは、イエス様の左側にいたのだと思われます。それを裏付けるのは、このイエス様の言葉です。これも、ヨハネにしか聞こえないように話したのでしょう。

『13:26 イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。』

 横になった状態で、パンを渡せるのは、隣ぐらいです。そのことから、イエス様の左横にいたのは、ユダの可能性が高いわけです。少なくとも、ユダはイエス様の左の席か、もう一つ下の位の席にいたことは確実でしょう。イエス様は、裏切ろうとしていたユダにも、足を洗って仕えたばかりではなく、イエス様の近くの良い席で、食事をすることを許したのです。さらに、ユダには特別にパンを渡しています。 浸したのはオリーブ油でしょうか?浸したパン切れは、ユダに与えられたのです。イエス様は、裏切ろうとしているユダを名指ししないで、他の弟子たちと同じように扱われたのです。このイエス様の姿は、私たちに対する赦しを象徴しています。また、このようにも言えます。罪を犯そうとしているユダに、イエス様は仕えたのです。イエス様は、私たちが罪深いことなどは、よく知っておられるのです。それでも、悔い改める機会を与えてくださるのです。そしてさらに、私たちが罪を犯してしまっても、それでも私たちをお赦しになるからです。


 さて、イエス様のこのおもてなしを受けながら、イエス様からパンを受け取ると、ユダの中にサタンが彼に入ってきました。

『そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。』


 ユダを除く11弟子は、このイエス様の言葉の意味が分かりませんでした。

『13:29 ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。13:30 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であったた。』

ユダが裏切ることをイエス様から聞いたヨハネすら、「今すぐに裏切りなさい」とイエス様が言っていることに気づかなかったのです。


 話は変わりますが、ここで聖書は、ユダがイエス様の群れの会計係をしていることを明かします。ユダは、この群れに必要な人であり、そして守られるべき人だったのです。イエス様も、弟子の誰であっても脱落したり、罪を犯すことを望んではいません。一方で、大切なユダの働きがあるからと言って、ユダを特別に赦すわけではありません。その赦しは、すべての罪深い人々のためにあるのです。その赦しのために、イエス様は十字架にかかられて、その罪を贖われたのです。そして、事実として言えるのは、ユダの裏切りがなければ、十字架の出来事はなかったかもしれないということです。結果的に、ユダは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とのイエス様の言葉に背中を押されて、イエス様を裏切りました。しかし、その事があってこそ、イエス様の十字架の贖いが成就したのです。これは、ユダの意思によって起こったことではなく、神様のご計画であります。・・・

 そもそもユダは、イエス様の十字架の出来事を引き起こそうとしていたのでしょうか?逆にむしろ、積極的にイエス様の力を信じ、奇跡が起こることを期待したのでしょうか?ユダの真意はわかりません。唯、言えることは、イエス様はすべてを御存知だったということです。そして、判断はユダにゆだねます。ユダが思いとどまって悔い改めるならば、イエス様は赦したでしょう。また、イエス様の力を試そうとして、つまりユダは、「イエス様の奇跡」を見ようとして、イエス様を裏切ったとしても、イエス様は赦したと思います。そして、イエス様を裏切って殺そうとしたとしても、イエス様は赦されたのだと言うことです。

「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」

こうイエス様が言ったとき、すでにユダは赦されていたのです。ですから、ユダがどの道を選んだとしても、イエス様はユダを見捨てることなく、そして悔い改めることを期待していました。このようにして、イエス様はユダの行いによるすべての結果を受け入れてくださったのです。


 先ほど話しましたが、ユダは会計係でありました。会計係は信用できる者にまかせる仕事です。だれでもお腹が空けば、パンを買わなければなりません。困っている人がいれば、施しも必要です。人の命に係わる仕事と言えます。しかし、限られた献げ物でイエス様の財布を管理するわけですから、その管理で心労がたまったのかな? と想像されます。ユダは、堅実で、信頼できる人物であると思われていたでしょう。しかし、ユダ本人にしてみれば、任せられることに疲れてしまっていたのかもしれません。また、みんなから期待されているとおりの姿と、罪深い自分の実際の姿との間にギャップを感じていたのであれば、ストレスだった事でしょう。人前ではそつなくふるまっていたユダでしょうが、他の弟子たちには気づかれない、心の闇があったと思われます。しかし、イエス様はずっと前からユダの心の闇を心配し、そしてユダのために仕えていました。


 ユダはパンを受け取ると、すぐに夜の闇の中に消えました。心の中も暗かったのです。「イエス様ごめんなさい」と謝って、そしてやり直すことをユダは選べなかったのです。そして、光の中におられるイエス様に背くことに、うしろめたさを感じていました。ユダは、その選びに自信がなく、どちらを選んでもその結果起こることに希望を見だすことができません。結局ユダは、イエス様の十字架の出来事によって自ら命を絶ちました。しかし、イエス様はユダが死んだ後も、悔い改めを待っている方であると、私は信じています。


 私たちはイエス様の愛。このいつまででも悔い改める時を待つ、このイエス様の忍耐に言葉を失ってしまいます。イエス様には十字架の刑が迫っていました。それでもイエス様の命を危うくする者に対して、ここまでされるからこそイエス様なのです。それだけではありません。イエス様はすべての人を招いておられます。わたしたち招かれている者すべてが、罪人です。なのに、イエス様は私たちを導こうといつまでも待ってくださっているのです。そのイエス様に信頼し、導きを求め、そしてゆだねてまいりましょう。