ヨナ3:1-5

どこまでも慈しむ神様

2023年 86日 主日礼拝

どこまでも慈しむ神様

聖書 ヨナ3:1-5

 今日の聖書はヨナ書です。ヨナは列王記に出てくる預言者であります。イスラエルの王ヤロブアム二世のときです。(列王記下14:25の記事がヤロブアム二世が即位した年の事です)列王記の記事によると、紀元前782年ごろに預言者ヨナは活躍していたことになります。この記事からは、「ヨナが、イスラエルの失った国土を取り戻す預言をした」ことしかわかりません。ですから、このヨナ書が唯一のヨナの人柄を知る手がかりとなります。ヨナが偉大である理由の一つは、アッシリアの首都ニネべの民(考古学的には人工約20万人)すべてが、神様の前に悔い改めた。この「しるし」によるものであります。「神様が、異邦人をも顧みられ、そして導こうとしてヨナを派遣しました」。これには驚きを感じます。イスラエルが選ばれた民であり、そして、他の国の人々は神様を知らない罪人である。これが、イスラエルの選民思想なのですが、ヨナ書のこの記事はその選民思想がくつがえるような内容であります。

 選民思想では、イスラエル民族と神様の間に特別な関係「契約」があることを誇りにしているわけですが、その契約は、ノアに始まり、アブラハム、イサクと代々続きます。そして、ヤコブの時に、イスラエルとの契約となりました。

創世記『35:10 神は彼に言われた。「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」神はこうして、彼をイスラエルと名付けられた。』

このとき、神様はイスラエル民族の繁栄を約束しています。こういう特別な関係を結んだことにより、神様は「飢饉があればエジプトへの移住を導いたり、そのエジプトでイスラエルの民が奴隷として迫害を受けた時も、そのエジプトからの脱出を導いた」のでした。そして、約束の地カナンでイスラエルの民は、ユダとイスラエルの2つの国を持つことが出来ました。ところが、北王国となったイスラエルの国は、争いが続いて、ついにはアッシリアに滅ぼされようとしています。そんななかでのヨナ書です。たぶん、神様はアッシリアがイスラエルを奪おうとしていることに対しての 「警告」を、ヨナに命じたのだと思われます。その命令は、このようなものでした。

『1:2「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」』

 ところが、ヨナは預言者としては、たいへん変わっていました。神様の前から逃げ出したのです。ヤッファの港から船出して、遠い町(タルシシュ:スペインの都もしくはトルコのタルソ)に向かいます。・・・なぜ逃げたのでしょうか? それは、ヨナ自身が語っています。

『4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。4:2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。4:3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」』

 「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」とニネべの都で預言をすれば、ニネべの民は悔い改めて、断食をして、荒布を身にまとうとヨナは予想していました。断食は、食事を絶って神に赦しを願うこと、荒布は死人と同じ装束をして、自分の罪を悲しむことです。そして、断食と荒布をまとう姿を見て神様は、ニネべを滅ぼしはしません。それでは、「ニネべの都は滅びる」とのヨナの預言は、何の意味もないではないか。と言うわけです。もちろん意味はありました。ヨナの預言を神様の警告と受け止め、人々は悔い改めたからです。しかし、ヨナにしては嫌な役回りです。自分が預言することが成就しないことを知っているわけですから。そして、神様はこの異邦人の都を滅ぼさないことも、ヨナはよく知っていました。神様は、異邦人をも忍耐深く慈しんでおられる方だからです。ペトロやパウロが異邦人伝道を始めるその約800年前に、すでに神様は異邦人をも慈しんでおられたわけです。

 さて、神様から逃げたヨナは酷い嵐に遭遇します。その嵐は神様がヨナを引き戻すために、起こしたものです。ですから、船乗りたちが神々に祈っても嵐は収まりません。そこで、船に乗っている人々は、この災難が誰のせいで起こったのかを調べるために、籤をひきました。それがヨナにあたって、ヨナは神様の命令に従わずに逃げてきたことを白状します。そして、自分を海に投げ込むように言いました。結局、ヨナが海に放り投げられると、海は静まります。

 そして、これからがヨナが偉大である二つ目の理由です。

 神様は、ヨナを海に放り投げさせました。しかし、神様はヨナを見捨てたのではありません。投げ出されたヨナは、大きな魚に飲み込まれます。これも神様が用意しました。三日三晩魚のなかにいて、ヨナは神様に祈ります。神様はヨナを慈しんでいました。それを知っているヨナは、神様に助けを求めたのです。そしてその祈りは聞かれました。大きな魚がヨナを吐き出したのです。この記事は、十字架の出来事の3日目にイエス様が復活することの「しるし」であります。イエス様自身もこのように言っています。

マタイ『12:39 イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。12:41 ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。』

 イエス様は、「ヨナのしるし」と言いました。「しるし」とは、神の業であることの証拠とでも言いましょうか?「人にはできない事、神様にしかできないような奇跡」をさします。このとき、ファリサイ派の人々や、律法学者たちが、「神様に遣わされたことを証明しなさい」と、イエス様に詰め寄っていました。彼らは、実は、毎日のようにイエス様の「しるし」を見ていたのにです。イエス様を信じている者には、癒しや死んだ者の生き返りは「しるし」なのですが、イエス様を信じていない者には、そのようには見えません。なにか、しかけがあるのではとか、たまたま偶然でとか疑うわけです。ですから、目の当たりに見ていても「しるし」として受け止めないのです。ヨナのしるしは、第一に「ニネべの都が、ヨナの説教で悔い改めた」ことです。その結果、神様はニネべの都を滅ぼさなかったわけです。いいえ、むしろニネべと言う異邦人の都すら神様は慈しんでいることが、証明されたのです。そして、第二に、「イエス様が十字架にかかって死に、墓に入れられ、そして三日目に甦る」ことです。ヨナと同じ「しるし」がイエス様の上に起こることをイエス様は予告しました。そして、しるしを見せるように詰め寄ったファリサイ派の人々や律法学者たちは、後に、十字架と復活の「しるし」を目の前で見ましたが、イエス様を信じませんでした。「しるし」は、イエス様を信じているからこそ、「しるし」として見ることが出来るのです。イエス様を信じていない彼らが、最大の奇跡である死人の復活を見たところで、「しるし」には見えないのです。


 さて、神様によって助けられたヨナに神様は命令をくだします。

『3:2 「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」』

 今度は、ヨナは逃げ出しませんでした。神様はヨナを慈しんでいるように、ニネべの都も慈しんでいることは、ヨナはよく知っていました。また、何よりも神様はヨナにこの仕事をさせたい理由がありそうです。でも、結論は知っています。ニネべの都は悔い改め、神様はニネべの都を赦すのです。そのためにヨナは『「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」』と、説教しながら、ニネべの町を回ったのです。

 そして、ニネべの都が悔い改めると、神様にさきほどの不満をこぼすわけです。『生きているよりも、死ぬ方がましです』と。

 神様は、こう答えました。『「お前は怒るが、それは正しいことか。」』

やはり、不満が消えないヨナは、「都に何が起こるか見届けよう」とします。想像するに、「また、元に戻っちゃうんじゃないの?」「そしたら、また滅びると言いに行けと命令されるのかな?」「何で、神様はこんなに手間をかけるのだろう」と言うことだと思われます。ある意味、ヨナはこの時、神様を裁いているわけですね。だから、結末を見届けようとしたのです。

 ヨナは小屋を建てて、そこで見届けていました。日差しが強いなかです。神様は、ヨナの苦痛を救うために、トウゴマの木に芽を出させました。すると、日よけにちょうど良く育って、ヨナは喜びます。しかし、神様は次の日、虫に命じてトウゴマを枯らせてしまいます。

『4:8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」』

神様は、ひどいことをされるものです。せっかくヨナのために良い日よけを与えておいて、その良さを味わうと途端に、その日よけを枯らしてしまいました。最初から何もしない方がましです。ヨナはこの神様のやりように怒ったのです。しかし、その怒りは正しいのでしょうか? ニネべが悔い改めた時にもヨナは怒りました。その時も、神様は「それは正しいのか?」と聞きました。それは、「ニネべが滅びてもしかたがない」と思っているヨナへの質問でした。ヨナは自分が正しいと思ったからこそ、それを見届けていたのです。

『4:10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」』

神様の言われるのは、ヨナがトウゴマを惜しんだように、神様がニネべの都を惜しんでいる事です。だれかが、惜しんでいる物・事を奪う。それは、たぶん、正しくない事の方が多いでしょう。しかし、一概には言えません。すべての人にとって益となっているかどうか・・・ 神様は、そういう基準で判断するからです。ですから、ヨナのように一時の利害や感情で怒るのは、あまり正しくないのだと思います。神様は、ヨナにそのことを教えたのです。一方で、神様がヨナのトウゴマを奪ったのは、正しくないように見えます。しかし、ヨナは神様がニネべの都を慈しんでいること、そして、ニネべの都で再び説教する時が来ることを理解しました。それならば、神様もヨナもニネべの都もすべてが、失うものが無いのです。神様は、そのようにすべての人を、信じている者も信じていない者も、慈しみ、そして導かれているのです。そして、神様の慈しみを完成するために、神様はイエス様をこの世に降しました。イエス様は、十字架にかかり、死んで、葬られ、復活しました。そして、再び来られるのです。その時のために、私たちイエス様を信じる者は、全ての人々が神様の慈しみを受けるように祈り、そして働くことが命じられています。その命令にお答えしたいですね。私たちを滅ぼさずに慈しんでくださる神様の全てに信頼して、神様のご計画に委ねてまいりましょう。