マルコ9:14-29

祈りによらなければ2

2022年 7月 31日 主日礼拝

祈りによらなければ

聖書 マルコによる福音書 9:14-29           

 大勢の群衆に取り囲まれて、イエス様の二人の弟子と律法学者たちが議論をしていました。イエス様は、いつも12弟子と一緒にいるイメージがありますが、実は、手分けをして町を回っていました。イエス様が伝道を開始したころから、二人を一組としていたようです。その記事を紹介します。

マルコ『6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、(中略)6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。』

 このように書かれていますので、弟子たちはイエス様から「汚れた霊に対する権能」つまり、病の原因となっている汚れた霊に出ていくよう命令する権威と、実際に追い出す手段を与えられていたということになります。そして、弟子たちはあちこちの町で、人々をいやしました。

 その一組が人々に囲まれているところに、イエス様が、ほかの弟子たちとやってきたという場面です。二人の弟子のところには、一人の父親が病気の息子を連れてやってきていました。その子の病気は「てんかん」(マタイ17:14)です。この父親は、弟子たちに息子をいやすように頼んだのですが、結果は失敗だったのです。この父親は、「何故、自分の息子をいやせないのか?」と不満だったと思われます。二人の弟子たちに直接、その不満を訴えていたのでしょう。そんなところに律法学者が出てきたので、さわぎが始まってしまうのは、自然の流れです。律法学者たちは、二人の弟子にいろいろと聞くはずです。たとえば、「あなたがたは、何の権威で子供をいやそうとしたのか?」と二人に聞くに違いありません。そうしたら「イエス様の権威」と二人は答えると思われます。  

 こうなってしまうと、二人の弟子は、律法学者たちに言葉ではかないません。実際に、その子供をいやせなかったのですから、「イエスに人を癒す権威はあるのか」とか「あなたがたは、本当にイエスの弟子なのか」などと言われたことでしょう。その問いに二人の弟子は、「イエス様は神様から遣わされた預言者です」とか「私たちはイエス様から汚れた霊に対する権能をいただきました」と答えたでしょう。しかし、「事実」を元に、「それではなぜ、いやせなかったのか」と律法学者たちは、二人の弟子を追い込めます。それでも二人の弟子は反論したと思われます。例えば、「昨日まではいやすことができた」「もう一回やらせてほしい。今度こそいやして見せる」と言ったことでしょう。こうなってしまいますと、言い訳にしか聞こえません。律法学者たちとしては、偽の預言者が来て、群衆を惑わしているように見えていますから、二人の弟子は追い出されようとしていたのです。

 そんな場面で、イエス様が現れたものですから、群衆は皆驚きイエス様のところに集まってきました。そして、群衆の中の一人が言います。

 『9:17~先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。~9:18この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。』

 弟子たちは、律法学者との議論でせいいっぱいだったのでしょうか?助けるべきてんかんの子とその父親は群衆の中に取り残されていました。議論に夢中になっている二人の弟子と律法学者たちから放っておかれたのです。それをご覧になって、イエスは嘆かれました。

 『9:19~なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。』

 今、いやしを求め、救いを求めている父親と子供が群衆の中に置き去りにされています。そして、それを顧みずに互いの主張をし合っている律法学者たちと二人の弟子、その議論の様子を見ている群衆。いったい誰に対してイエスは「信仰がない」と嘆いたでしょうか。第一にてんかんの子の父親の信仰。そしてイエス様の弟子たちの信仰のことだと思われます。イエス様はすぐに続けて、『その子をわたしのところに連れてきなさい。』と呼びかけました。

 その子は、父親に連れられて、群衆の中からイエス様の前に来ます。父親は、いやされるかどうか疑っている状態でした。イエス様に先ほど言った言葉も「いやしてください」ではなく、『9:18お弟子たちに申しましたが、できませんでした。』と、失望した様子が見て取れます。

 そして今度は『9:22~おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。』と付け足します。この言葉から、イエス様を信じて信頼していいる様子とは言えません。むしろ、「あなたの弟子ができなかったのだから、あなたはどうせ偽預言者だろう」という気持ちがどこかにがあるのだと思われます。


 イエス様は、このとき怒ったのでしょうか?それとも、やさしく諭したのでしょうか?このように言います。『できればと言うか。信じる者には何でもできる。』

 「できれば」との言葉には、「そのほうが望ましい」という意味でありますから、ひっくり返した言い方をすると「できないことならばあきらめる」という意思になります。つまり、「イエス様がいやしてくださる」ことが望ましいのですが、「イエス様がいやしてくださる」という確信は持っていないのです。この父親は、息子をいやしてほしいと、強く願っていますが、イエス様のことも、そして二人の弟子のことも信じていなかったのです。

 父親は、「あなたは、いやされると信じていない」とイエス様が言われたことに気づきました。本心をつかれて、これは、まずいと思ったのでしょう。父親は、とっさに『信じます。 信仰のないわたしをお助けください。』と答えます「信じるから、助けてください」。これは、父親の願いでもありますし、父親自身が「できることは何でもする。」と決意が見えます。父親は、「信じれば何でもできる」とのイエス様の言葉に背中を押されて、『信じます』と叫びました。つまり、勢いで「信じる」と宣言したことになります。当然、「イエス様を信じることも、病気が治ると信じることも」父親には自信がないのです。それでも、何とか息子をいやしてほしかった父親は、正直に付け加えるのでした。

『信仰のないわたしをお助けください』  この父親は、自分のできることはイエス様にすがることしかないと、とっさに叫びました。

 これこそ、この父親のイエス様に対する祈りなのです。こうして、子供はいやされました。父親が、自身の不信仰を認めて、イエス様への祈りへと導かれた時、その祈りが聞かれたのです。イエス様を信じたいと願って、そしてまだ父親自身がイエス様を信じていないことを自覚しました。それでも「信仰のないわたしをお助けください」と、父親はイエス様にすべてを任せたのです。このときに、父親は信仰を持ったのだ・・・・と考えて良いと思います。


 さて、残る問題は二人の弟子です。この二人は、そのてんかんの子をいやすことができませんでした。そして、なぜできなかったのかもわかりません。そこで、あとからイエス様に聞いてみています。

『なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか』

そして、イエス様は、このように答えます。

『9:29 ~「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」~』

 

 このイエス様の答えで、納得されたでしょうか? この種のものとは何を指すのでしょうか? ギリシャ語でイエス様の言葉を見てみますと、「この種のものは、祈りによってのみ、もたらされる」と直訳できますので、それが一つの手がかりです。悪霊を追い出すにしても、病気を直すにしても、人がなしえようがない「奇跡」を起こせるのは、神様一人だけです。神様は、イエス様のとりなしによって、聖霊をお降しになります。そのようにして、奇跡は起こるのです。ですから、イエス様を信じて祈るしか、「奇跡を起こす方法」は、ないのです。

 それでは、二人の弟子とイエス様のいやしの違いは、何処にあったのでしょうか?それから、誰の祈りが足りなかったのでしょうか? 違いの一つは、父親の信仰と祈りです。明らかに、イエス様との会話の中で、父親は自身の信仰の無い姿に気づいて、「助けてください」とイエス様に訴えました。「助けてください」とは、究極の祈りです。そして、イエス様を信じるからこそ出る、祈りなのです。イエス様を信じたからこそ、なりふり構わず「助けてください」と訴えました。父親はできることは、何でもやったのです。その結果、イエス様のとりなしによって、その子は病から救われました。

 そして二つ目、二人の弟子は、すこし、勘違いをしていたのかもしれません。弟子たちは、イエス様から悪霊を追い出す権能を頂いていましたが、二人の弟子は、その手順に従っていただけです。それなのに、その奇跡といえるような出来事を自身で起こしていると思っていたのでしょう。しかし、奇跡の業を引き起こしているのは、神様だけなのです。二人の弟子は、これまでも癒しの業をしてきました。癒された人々や周りの人々が、イエス様を信じて、いやされるように祈ったからです。しかし、今回は、この父親は「if you can (おできになるなら)」と、試しているようにも見えます。もしかして、良いこと(息子のいやし)が起こるならば、「信じてあげます」という感じだったのかもしれません。しかし、それでは順番は全く逆です。信じるからこそ、祈る、そして祈るとイエス様がとりなしてくださるのです。ですから、二人の弟子のやるべきことは、父親の信仰を見て、この親子のために祈ることだったのです。「この父親に信仰を与えてください」でもよかったでしょうし、「この子を病から救ってください」という祈りでもよかったのでしょう。イエス様の言うように、

『信じる者には何でもできる。』

のです。なぜなら、祈りは必ず聞かれるからです。すべての祈りを聞いてとりなしてくださるイエス様に、感謝しましょう。私たちイエス様を信じる者は、祈ることで、希望を与えられ続けるのです。祈りがすぐかなう時も、そうでないときもあります。それでもイエス様を信じて、自身でやれることは何でもする気があるならば、まずは祈り続けることです。祈り続けることによって、実は私たち自身も変えられていくのです。この父親が急に信仰を持って祈ったことと同じように、イエス様を信じて祈るならば、祈りが聞かれて奇跡が起こるのです。奇跡とは、人の起こす不思議な出来事のことではありません。神様のされる事すべてを奇跡と呼んでいるのです。私たちは、神様の御業に信頼して、そして日々祈ってまいりましょう。そしてすべては、神様のみ旨の通りになります。