マタイ12:43-50

神の家族

2023年 820日 主日礼拝  

神の家族

聖書 マタイ12:4-50

 今日の聖書の前半は汚れた霊のたとえですが、ちょっとわかりにくいですね。少し、解説をしましょう。まず、この世にイエス様が来られてから、イエス様は人にとりついた汚れた霊を各地で追い出しました。すると居場所を無くした汚れた霊は代わりの場所を探しますが、見つからないので帰ってきます。もちろんイエス様への信仰をしっかり持ち続けていれば、私たちにけがれた霊は戻っては来ません。しかし、私たちの心の中にイエス様が住んでいなければ、汚れた霊が、空き家となった私たちに戻ってきます。そのときに、もっと悪い霊まで連れて来るならば、私たちは前より悪い状況になってしまいます。

 さて、イエス様はこの世に来られてから、十字架にかかって死に、そして墓に葬られて、復活しました。その後、イエス様が再臨するまでの期間を、悪い時代とイエス様は呼んでいます。「イエス様が再臨するまでの間イエス様の信仰を心の中にしっかり保っていかなければ、私たちが汚れた霊に入り込まれてしまう」とイエス様は教えていたわけです。「イエス様のことを信じていなければ、汚れた霊に入り込まれる。また、天の父の御心を行なわなければ、天の国には入れない。」イエス様はこのことを教えたのです。だから、天の国に入って、イエス様の兄弟、姉妹、母となるためには、まず第一にイエス様を信じることが必要なのです。

 ところで、この時どれだけの人がイエス様を信じていたでしょうか? 8月の第一週にヨナ書から宣教をしました。ヨナのしるし、つまりイエス様の十字架での死、そして墓に葬られ三日目に復活することを予告したしるしのお話でしたね。福音書を注意して読んでみると、ヨナのしるしを見ることなく・また聞くこともなく信じた人がいます。一人はベタニアのマリア(ヨハネ12:1-8)で、あとは、十字架にかけられた犯罪人の一人(ルカ23:40-42)だけですね。そしてヨナのしるしを見て信じたのはイエス様の弟子たちです。これには、マグダラのマリアも含まれます。というよりも、真っ先に復活後の姿を見たのですから、弟子の中でいちばん先にイエス様を神様だと信じたと思われます。パウロは、イエス様の復活を500人以上が同時に見た(1コリ15:6)と証言しています。ですから、この人々は、ヨナのしるしを見て信じた事になります。そして、信じなかったのは、全部が全部ではありませんが祭司たち、律法学者たち、ファリサイ派の人々、および群衆であります。彼らは、ヨナのしるしの目撃者でもあります。しかし、イエス様の起こす奇跡を何度も見ている彼らは、究極の死者の復活のしるしを見ても、イエス様を信じなかったのです。彼らは、イエス様に常々こんなことを要求していました。

マタイ『12:38 すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。』

これを受けて、イエス様はヨナのしるしの話をしました。そして、あなた方の心の中に信仰がないので、汚れた霊が、またさらに強くなって入って来る。と予告していたわけです。イエス様は、律法学者たちやファリサイ派の人々に対して、信仰が無くて「けがれた霊に支配されている」と 批判していたと理解してください。


 さて、そんな場面にです。突然イエス様の母と弟たちが現れます。この記事には「話したいことがあって」としかありませんので、並行記事を参考にしたいと思います。

マルコ『3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。』


 マルコの記事は、穏やかなものではありません。本当に身内の人がイエス様を取り押さえに来ていたのでしょうか? マルコ(6:3)とマタイ(13:55)の記事から見ると、イエス様の家族は、母マリア 兄弟ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ。そして姉妹が2人以上います。父ヨセフは、イエス様が12歳の時の神殿での出来事(ルカ2:41)が最後で、その後は出てきませんので、早く亡くなったと思われます。イエス様の宣教開始が30歳のころですから(ルカ3:23)、その宣教のために家族の生活が犠牲になっていたとも言えます。当時のイスラエルには家長制度でしたから、父が亡くなった家では、長男が後を継がなければなりません。それを省みずに、宣教を開始したわけですから、「気が変になっている」と言われても仕方がないかもしれません。また、イエス様の幼い時と両親を知っている人々は、イエス様を尊敬の対象とは見なかった様です。むしろ、「家を出て聖書を教えるなんてどうかしてる」といった印象を持っていたと思われます。そんな背景もあって、普通の家族生活を取り戻すために、家族が迎えに来ていたということなのでしょうか?しかし、なかなかそうとは思えません。少し様子がおかしいのですね。イエス様を連れ戻すのが目的ならば、すぐにその行動に出たと思われます。もしくは、イエス様の言行をしっかり確認しながら、説得する材料と機会を見つけようとするはずです。そう考えると、イエス様の家族の態度は非常に消極的に見えます。ではいったい、何のためにイエス様の家族が来たのでしょうか?だれかがそうさせたのでしょうか? そうだとしたら、イエス様を家族に連れ戻させて得する人なはずです。疑わしいのは、律法学者たちとファリサイ派の人々ぐらいかな? と思います。イエス様が宣教しなければ、彼らの権威は保てるのですから・・・一方、イエス様の家族はどうでしょうか?たぶん、連れ戻せるならとっくに連れ戻していたでしょう。また、たとえ連れ戻しに成功したとしても、再び出ていくだけだとわかっていると思います。そして、弟子たちや群衆にもイエス様を家に連れ戻してほしい理由がないようです。ということから、私は、律法学者たちとファリサイ派の人々が、これ以上イエス様の評判が上がらないように、家族に引き取らせるように手をまわしたのではないかと想像しています。


 イエス様の家族は、話をしたいために家の外に立っていました。何時かもお話ししましたように、当時のユダヤの家では、人々は中庭と屋上で生活しますから、家の前の戸の無い入口に立っていれば、中にいる人々の姿を見ることが出来ます。

家族が来ていることはすぐに、イエス様に伝えられました。すると、イエス様はこんなことを言います。

『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』

たった今、「心の中にイエス様への信仰が無ければ、追い出したはずの汚れた霊は、また戻ってきてさらにひどくなる」と教えていました。その流れを受けて、イエス様はご自身の家族のことについて 質問をしたのです。もちろん血のつながった家族の事ではなくて、神様の前での家族のことを聞いているわけです。先ほど、ヨナのしるしを見ていない・聞いてもいない状態でイエス様を信じたのは、ベタニヤのマリアであり、十字架刑にかけられた罪人だけ と確認しました。そして、この場面では、将来神の家族となる弟子たちに、イエス様は囲まれています。そこに、イエス様の母と兄弟たちが来ていることが告げられました。イエス様は、時間をかけて丁寧に、神の国に入るには? 神の国はどのようなものか? いろんなたとえを使って教えていました。その神の国に入るのは、神の家族です。イエス様を信じ、そして「天の父の御心を行う者」が神の家族だとイエス様は教えます。


 ところで、 この時、イエス様の母や弟たちは「外に立っていた」と書かれています。何か遠巻きにイエス様が教えていることを見ながらも、そこから動きません。捕まえようとしてイエス様の前に進み出ようとしているわけでもありませんし、イエス様の話を吟味して聞いているわけでもありません。本当に立っているだけだったのです。彼らは、イエス様の家族としてイエス様をよく知っていました。しかし、自分らが知っているイエス様。これが妨げになります。先入観があって、イエス様の言葉に心を開いて、聞こうとしないからです。

 

 私たちも、イエス様について自分勝手な理解をしているかもしれません。ですから、イエス様を「理解している」と勘違いしないように、私たちも注意しないといけません。イエス様は、ときとして常識を超えた行動をとりました。だから、「気が変になっている」とも言われたのでしょう。しかし、「私たちの持つ常識は、正しい」との前提を取り去らなければなりません。決して私たちの常識と言う物差しは正しくないのです。むしろ、イエス様の意外性を受け入れ、私たちの常識を問い直すことが必要だと思います。イエス様のみ言葉は、私たちにとって新しい問いかけであります。ですから、いつでも先入観なく、イエス様のみ言葉に耳を傾けたいですね。私たちは、常にイエス様に聞く準備が必要です。「家の外に立って」イエス様に気づいてもらうのではなく、私たちは、イエス様のそばに行く。そしてかつ、イエス様の語る言葉を、今までの理解を持ってではなく、新しいみ言葉として聞きとろうとすることが必要なのです。


 外に立ち続ける「家族」に向かってイエス様は、「天の父の御心を行う者こそわたしの家族である」と言いました。これは、群衆に向けた言葉でもありますし、律法学者たちやファリサイ派の人々にも向けた言葉です。だれでも、神様の御心を行うことによって、神の家族となるのです。だから、神様の御言葉を聞き、そして神様を愛し、隣人を愛するという行いを通して、神様の前に家族となるのです。その前に、イエス様を神の子として信じ、イエス様に執成してもらう必要があります。そうして、私たちは神の家族になるのです。

 

 ところで、イエス様の『わたしの母とはだれか、兄弟とはだれか』という言葉は、元々意訳です。直訳すれば、こういう表現になります。

「わたしの母とは何のことか?兄弟とは何のことか?」との問いでありました。神の家族となることは、どういうことなのか? 「それでは、私たちが いったい何者であるか」といった ことを問い直しているのです。つまり、所謂アイデンテティのことですね。イエス様は決して「血のつながりの家族はどうでもよい」と言われているのではありません。神様の御心を行う「神の家族」こそが私たちの居場所であるのだ。とイエス様は教えているのです。


 神様の御心を行う「神の家族」のつながりこそが、私たちの最も大切な居場所であります。そして、その居場所で、永遠につながり続けるのです。私たちの教会が、そういう居場所、本当に神様の御心を行う教会であってほしいです。でも、出来ることは限られています。ですから愚直に、神様の御言葉に耳を傾け、そして神様の御心を行うことを求めて、イエス様を通して神様に祈りましょう。イエス様は、必ず私たちを「神の家族」となるように、神様にとりなしてくださる。そう信じてまいりましょう。