マタイ17:1-20

イエス様の姿が変わる

 

1.イエスの姿が変わる

 

 イエス様が神の子であると弟子たちに告白して、6日の後。弟子ペトロとヨハネを連れて高い山に登ります。シナイ山でのモーセを連想されるような記述です。

◆モーセの顔の光

34:29 モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。34:30 アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、34:31 モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。34:32 その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。34:33 モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。34:34 モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。34:35 イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた。』

 

顔が光るとは、神がかっていることを示します。神様がそこに臨在されているのです。そこに、モーセとエリアが現れて、イエス様と語りあっていました。それを見たペトロが、この人のために3つ仮小屋(テント、tabernacle「天幕、ユダヤの神殿」:σκηνή)を建てましょうと提案します。言い終わらないうちに、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえました。ペトロの提案を否定したようにも思える声でした。弟子たちは、大変怖れました。モーセは律法の書の預言者ですし、エリアも律法学者が言う「やがて来られる預言者」です。しかし、神ではありません。ペトロは、その神でないものを礼拝するために神殿をたてようと言いだしたのですから、神様の怒りを買うことは当然でしょう。「申命記5:7 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」との十戒の第一戒に触れる事だからです。気が動転していたからでしょう。

弟子たちは、「エリアがまず来て、そのあとに救い主が来る」との律法学者の話を出して、イエス様に尋ねます。そして弟子たちは、バプテスマのヨハネがエリアとして来ていましたが、人々は彼をあしらってしまったことを理解します。

 

2.悪霊に取りつかれた子をいやす

 

 弟子たちがいやすことができなかった、てんかんの子供をいやされました。イエス様は、弟子たちがいやすことができなかったことに対して不信仰だと言います。もうすでに、イエス様が居なくなることを弟子たちに教えていたからです。いつまでも、イエス様に頼ってはいられないことを自覚してほしかったのです。弟子たちは、逆に「どうして自分たちでは、いやせなかったのか」疑問を持っていました。

『イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」』 

信仰があれば何でも叶う。そして、弟子たちにもそれができる。その二つをイエス様は教えます。


 てんかんの原因は、悪霊ではありません。しかしそのことをもって、「いやすために信仰が必要である」というイエス様の言葉は否定できないでしょう。信仰があって神様に祈れば、原因がわかっていない病気でさえ神様はいやしてくださるとイエス様はおっしゃっておられるのです。弟子たちに足りなかったのは、必ずいやされるとの確信を持って神様に祈る、そういう信仰だったのでしょう。