コリントの信徒への手紙一15:35-58

新しい体に変えられる

聖書研究

1.異なる体、異なる輝き

 コリントの教会にいる人たちは、この地上で死者が復活するとしても、「どのようにしてよみがえるのか。」と聞いたのだと思います。当然、死人の復活を見たり聞いたりしたことが無ければそういった疑問を持つわけですし、復活を説くパウロを馬鹿にしていたのかもしれません。

『15:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。』

 パウロは、そのような質問に「愚かな人だ。」と言っています。そして、蒔かれた種とそこから出てくる茎や実のたとえを話します。つまり、「死んだ者が命を得るはずはないじゃないか」との問いに、「穀物の種は種として死んで、穀物を実らせる植物に命を与える」と、説明したわけです。どちらも正しいことを言っています。しかし、このあいまいなたとえでは、納得できるか疑問です。パウロは、「私たち人間の肉体(種)」と、「よみがえるときの体(植物)」にたとえています。つまり、肉体そのものが復活するのではなく、異なる体によみがえるのです。(このたとえが苦しいのは、死んだ種は芽が出さない事実)

 その姿かたちが、どのように異なるのかを、また別のたとえで説明します。動物によっても肉体は異なります。同じように、天にあるものは異なるのです。ですから、復活の体も、私たちが今持っている肉体の体とは異なるのです。そして、パウロは体の輝きも異なると説明します。星の中でも、名も知らない星と一等星とでは、一等星のほうが目に付きます。同じように、肉体の体と復活の体を比べるときも、その輝きが異なるとパウロは説明するのです。

2.霊の体

 肉の体が死ぬことによって、霊の体が与えられます。両者の違いは、朽ちるか朽ちないかです。復活の体は、永遠に生きることができるのです。そして、霊の体には輝き(天の栄光)があります。私たちは、疲れますし、病気にもなります。そして、罪の誘惑も受けます。しかし、霊の体は、疲れないし、病気になることはないし、誘惑も受けません。このように、まったく異なる体でよみがえるのです。肉の体はアダムに似たものであり、霊の体はキリストに似たものであります。聖書に『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは、生きた霊となりました。

 この最後のアダムとはキリストのことです。最初の人アダムは、塵に霊を吹きかけた体を持ちました。しかし、アダムは罪を犯したので、死ぬ者になりました。肉の体を持ったのです。私たちは、アダムと同じように罪をこの体に宿し、そしてアダムと同じように死にます。私たちはアダムが罪人であるように、私たちも罪人です。そして、アダムが死んだように、私たちも死ぬ運命にあります。しかし、最後のアダムであるキリストは、ただの一度も罪を犯しませんでした。それなのに死刑となりました。そして、キリストは死者の中からよみがえりました。それは朽ちる体ではなく、栄光ある朽ちない体でです。そして、キリストがよみがえったように、私たち自身も新しい体を持つようになるのです。

3.新しい体に変えられる

 肉の体では、神の国を相続することはできません。だから、神の国にふさわしい体が必要なのです。それが、霊の体です。これまでも復活したイエス様に会って、そして死んだ人は数多くいます。神様は、イエス様が再び来られる時を定めています。その時が来ると、死んだ者はみなよみがえり、新しい体を持ちます。そして、キリストを信じている生き残っている人たちは、この肉の体が変えられて、新しい体、霊の体を身につけるようになります。

 そしてパウロは、死への勝利を宣言します。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

『死は勝利にのみ込まれた。15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』

 この預言は、死そのものが滅びることを示します。死が、すべての人間を脅かし、恐怖におとしいれ、希望、信仰、愛を抱かせなくしているのです。しかし、死そのものが滅びます。死のとげとは罪なのです。 この死は、罪によってもたらされました。そして、律法によって罪が生き、私たちをさらに罪深いものとしました。しかし、神様は、イエス様の十字架と、復活によって、私たちに勝利を与えてくださいました。

 パウロは、『動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。』と言っています。キリストが私たちの罪のために死に、葬られ、三日目によみがえられた その福音の上にしっかり立つようにとの命令です。

 そしてパウロは、『主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない』と言っています。私たちの伝道の働きには、この世における報いはありません。しかし、死者が復活し、神の国に入れることを知るときに、すべての苦労に報いがあるのです。まさに、目に見えないことのために、私たちは今、働いているのです。