ローマ10:5-13

主の名を呼びめる者は

①「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
レビ記『18:5 わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる。わたしは主である。』
②『だれが天に上るか』と言ってはならない。
申命記『30:12 それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。』

③『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」
「だれが底なしの淵に下るか」:だれがキリストを死からよみがえらせるか?(ヨナのしるしから、連想されます)
④「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」
申命記『30:14 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。』

⑤「主を信じる者は、だれも失望することがない」
イザヤ『28:16 それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。』

⑥「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」
ヨエル『3:5 しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。』


1.律法の義の限界

 「掟を守る人は掟によって生きる」この言葉は神様によるものです。モーセは、「誰か天に昇って律法を取って来て聞かせてくれれば、行える」と言ってはならないとイスラエルの民に命令しました。つまり、「お前の書いた律法なんか守れるもんか! 守らせたいのであれば、天の神様から律法を誰かもらってきて、読んで聞かせてくれ!」等と開き直ってはいけないとの言葉です。モーセが神様から頂いた律法は、義しいものです。そしてそれを行う人は義しい人です。しかし、私たちは律法を守ることが不可能なのです。そこに律法の限界があります。一方でパウロは、キリストを信じる信仰によって義とされると教えています。私たちに与えられた最新の律法は「キリストへの信仰」「信仰による義認」であります。「天に昇って律法を取ってくる」それは、パウロにとっては、キリストを天から引き降ろすことになってしまいます。そのようなことは、有りえないでしょう。


2.キリストを信じれば

「だれが底なしの淵に下るか」 この言葉は、だれがキリストを死からよみがえらせるだろうか?との問いです。「誰もできるはずがない」ので、そんな話題で議論する意味はありません。もし、そのような人がいたならば、その人は自分で自分の事を救えるでしょう。だから神様にしかできないのです。ならば救われるためにはどうすればよいのか?それはキリストへの信仰です。

『御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。』

 キリストの言葉は、私たちの近くにあります。またパウロたち伝道者が伝えた信仰の言葉です。ですから、私たちは耳で聞いて心で受け止めています。そして、言葉で証することもできます。

ここで、私たちが救われるために必要なのは、口と心だけです。善い行いは必要が無いのです。

『10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。』

 「イエス様は主である」と公に口にして、心の中で「神様がイエス様を復活させた」と信じることが、救われるための条件です。

『10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。』

(イエス様を)信じた時、(そしてイエス様に委ねた時)私たちは神様から義しい者とされます。また、それを公に告白したときに「この人は、すでに救われている」と私たちは理解するのです。イエス様と私の関係だけでは、救われたとして教会の交わりには加われません。クリスチャンは、一人では生きていけないのです。信仰の友の交わりの中に入り、そして祈り合えるからこそ、私たちに平安がもたらされるのです。

3.主を信じる者は誰でも

 信仰は神様の恵みによって与えられたものです。そして、信仰に基づいて、私たちは救われました。だから、律法を守ることによって与えられるご褒美ではないのです。

『主を信じる者はだれも、失望することはない。』

 律法を頂いても、それを守ることが出来ず、救われる根拠がない私たちは失望してしまいます。私たちは、不完全だからです。義しくないのです。しかし、救いの根拠が「イエス様を信じ、そして公に証をした」ことだけです。ですから、何の功績もない私たちでも安心です。だから、これから以後も、安心なのです。

『10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。』

 すべての人が神様の救いに与れる。神様はイスラエルの人々だけの神様ではありません。イエス様の福音に触れて、そして信仰を表した者は、人種の区別なく、職業・身分の区別なく、金持ちでも貧乏人でも、そして病にある人も健康な人も霊にとりつかれた人も、すべての人が救いの計画の対象です。しかし、残念ながら福音を聞いても受け入れない人も多いのです。神様は、すべての人を招いています。だから、私たちには世界中の全ての人が福音を受け入れるように、伝道する責任があります。

『10:13 ⑥「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。』

 私たちは、だれでも無条件に(私たちが何か善いことをしたわけでもないのに)救ってくださる神様を信頼し、ゆだねながら、この喜びの知らせを伝えたいのです。困ったことがあればイエス様を呼び求める私たち。そして、困ったことが解消すると、イエス様を呼び求めなくなるかもしれません。それでも、イエス様は、私たちが困ったときにも、困っていないときも私たちに寄り添って、導いてくださいます。