ルカ16:19-31

が助ける者 

2021年 926日 主日礼拝     

 「が助ける者

聖書 ルカ16:19-31

先週は、ルカによる福音書から「不正な管理人」のたとえ話でした。『16:9~不正にまみれた富で友達を作りなさい~』と、「神と富とに仕えることはできない。」とイエス様が教え、それをファリサイ派の人々が笑ったという箇所です。今日のお話「あるお金持ちとラザロ」は、その続きであります。たぶん、イエス様は、ファリサイ派の人々が富に仕えている様子を見て、今日のたとえを話されたのだと思います。

 

今日の箇所では、金持ちが困っている人に情けを掛ける事が無く、自分の為だけに生きている。その末路をイエス様はたとえられました。金持ちに対する先入観だけでこの記事を読んでしまうと、イエス様が「富は罪であり、貧困は美徳である」と教えていると思うかもしれません。しかし、イエス様は貧富などでは、人を区別しません。富があるからとか貧乏であるということは、人格にはほとんど関係が無いからです。人格は生まれつきのものでもなく、人がそれぞれの生き方で、本人自身が作り上げていくものです。ですから、見た目や富で、人格を計ることはできません。

 

 このたとえの前半では、金持ちとラザロのことを淡々と事実だけが述べられています。

まず、金持ちは、門の前で飢えていた乞食に自分の食事を見せたと思われます。そして、犬たちがやってきては、その乞食のできものをなめたことが書かれています。たぶん野良犬たちでしょう。野良犬もお腹がすいています。この金持ちは、飢えている乞食ラザロを放っておいたのです。その金持ちは紫色の上着と麻の下着を着て、飢えているラザロを無視して食事をしました。金持ちはラザロに関心が無く、その状況に何も感じませんでした。この金持ちの性格についてこれ以上言う必要はありません。この記事に書かれている事実が、充分に彼の性格を語っています。

さて、ラザロですが、「神が助ける者」(Λάζαρος: אלעזר‎ (ʼElʻāzār, “El has helped.”)という意味の名前です。ラザロの存在は、意図しないまま金持ちの情の無さを引き出しています。ラザロの悲惨さは、同情をひくのに十分です。また、その名前なので、神様に助けを求めて祈っていたのでしょう。神の助けを待っていたラザロは、その金持ちの食卓から落ちるパンを拾いにはいけませんでした。また、犬たちが彼のはれものをなめたことは、ラザロが力なくなされるままの状態であり、そしてこの金持ちから完全に無視されていることを表しています。誰も犬たちを追い払ったのではなく、そして金持ちの門の前で横になっているラザロは何の助けを得ることもなかったということです。金持ちは、貧しい人々を探しに行ってまで困っている人を助けなければならないという義務こそありません。しかし、目の前に困っている人を見て居ながら何もしなかったことは、情けが足りないと言われても仕方がないでしょう。それは神様が与えてくれた良い機会だったに違いないからです。私たちがこのような機会を無視したならば、罪悪感にさいなまれると思われます。自分のものを困っている人に分けてあげようとしない。それは、とても冷たく感じられるはずです。飢えているラザロが、もし私たちの家の玄関に横たわっていて、何もしない私たちであったならば、それは悪なのだと思います。この事は、わたしたちにとっても、富に仕えるファリサイ派の人々にとっても無関係ではありません。

物語の後半では、金持ちもラザロも死んだ後の世界、陰府(よみ)にいます。先にこの土地にきたのはラザロで、天使たちによってアブラハムの宴席に連れて行かれます。一方の金持ちは、陰府(よみ)の世界で、炎にさいなまれています。普通の言い方をすれば、ラザロは天国に上げられ、その金持ちは地獄に落ちたのです。しかし、このたとえの中では、その地獄の光景を印象付けるような説明はなく、ただ淡々と金持ちとアブラハムの会話だけをつづっています。

アブラハムは、金持ちの「わたしを憐れんでください」との願いを拒否したうえで、金持ちに対する報いであることを教えます。

 

『16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。』

 ここまで言われて、金持ちはようやく自分自身の行いによる禍(わざわい)であることに気が付いたのでしょう。そして、アブラハムにお願をします。

『16:27 ~『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。~』』

 

ラザロと金持ち。この二人が死んだ後の待遇の違いに、この金持ちでも気づくことが出来ました。しかし、この気づきは本質的ではありません。金持ちは、結果として報いを受けていることを理解したのですが、何が悪かったのかはまだ本当には理解できていません。ラザロに対して反省がむけられていないからです。

ところで、金持ちの葬りについては聖書に書かれていますが、ラザロの葬りは書かれていません。ラザロに何もしてあげなかった金持ちは、最後の情けをかける機会であったラザロの埋葬もしなかったと思われます。そして、おそらく、その金持ちの葬儀は、豪華な上着をきせられて、盛大に執り行われたはずです。

ところが陰府の世界では、立派な葬式だったり金持ちだったりしたことは何の意味もありません。金持ちは生きている間ぜいたくな生活をしていましたが、死んだ後の世界には何も持っていけないのは当然です。すべてをこの世に置いていかなければなりませんでした。イエス様の語る自分だけの為に生きる様な人生を終わり、いま炎の中で苦しんでいるたとえは、現代の私たちへの警告でもあります。すべての富を、そして自分を守ってくれる人や物をこの世に残して陰府の世界に来てみると、炎の中に投げ込まれ、誰も守っても助けてもくれないのです。陰府の世界は、その人の行いの結果の裁きであるとしたならば、金持ちには、このような裁きが用意されていたのです。そして、陰府の世界では金持ちとラザロの立場が逆転してしまっています。乞食をしていたラザロは今、豊かさと喜びを共有する者であり、金持ちは炎の中で苦しみ、困っています。さらに、金持ちは、彼自身がラザロに手助けをしなかったのに、今はラザロの助けを求めています。与えることが出来ても与えてこなかった金持ちの人生を終えた今、自分の方が助けを必要になったからです。金持ちは、自分のしたラザロへの仕打ちに気づいていないのでしょうか?金持ちにとって、人は利用しつくす「もの」なのでしょうか? この期に及んでも、自分中心の考えから抜けられません。金持ちは、ラザロを自分のために使いまわそうとしています。

金持ちは、この様にアブラハムに言いました。

『16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』』

 

 どうやら、金持ちは自分のことはあきらめたようですが、まだ生きている5人の兄弟のために、同じ思いをさせないようにラザロに使いをさせるように頼みました。金持ちは、自身の悪さを認めたようではありますが、それでも金持ちが特権階級なので、ラザロに使い走りをさせて良いとの勝手な考えは変わらなかったようです。勝手な考えとは、「ラザロを使って良い」という認識のことです。金持ちが生きていたころ、「ラザロを助ける義務はない」という自分勝手な認識と何も変わっていません。本来は、「ラザロを使う権利はない」のに、金持ちは、自分中心な考えから抜け出すことが出来ていないのです。そもそも金持ちには人を利用することに慣れ過ぎのようです。ラザロが生きていたころ、ラザロは助けを求めることができなかったことと比べると、この金持ちはいまだ自分の今の立場を受け入れていません。

また、この金持ちは、お願いの最後を「あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」と結んでいます。このアブラハムに対する発言は、彼の兄弟を愛するから出たのではなくて、自分のための言い訳でしかありませんでした。

 

どうして言い訳かと言いますと、「もしこの結末を知っていれば、違った行動をとっていただろう」と金持ちは「聞いていないこと」を前提にしているからです。・・・見事なまでも人のせいにしていますね。金持ちは、「自分に警告してくれなかった」と人のせいにしていたのです。「与えられた警告は、不十分なので理解できなかったから、分かるように警告しないのが悪い」との責任転嫁です。すると、アブラハムは、「モーセと預言者」によって警告は出されていることを説明します。「モーセと預言者」とは、モーセ五書と預言書を指しますが、要するに聖書にその警告が書かれていて、そしてシナゴーグで教えられているということの指摘です。警告は「神様の教え」としてすでに届けられているのです。しかし、「聞きたくもない神様の教え」であれば、人は耳を傾けません。ですから、聞いたかどうかは、その金持ちの意思でしかないのです。たとえモーセが語ろうと、その金持ちが聞きたくなければ、聞かなくてもすまされるのです。たとえ聞いていたとしても、行動を起こすためには、その教えに共感がなければ行動にはなりません。つまり、動機なのですが、「自分の利益が生きる動機」であり続ける限り、聖書の教えに共感を得ることは難しいでしょう。共感が無ければ、悔い改めには程遠く、この金持ちの行動は変わりようが無いのです。アブラハムが言うように、金持ちの5人の兄弟たちも、たとえラザロが生き返って、その金持ちの話を伝えたとして、悔い改めるでしょうか? 「モーセと預言書」の教えに耳を貸さなかった人が、急に悔い改めるのは難しいのです。現に、今苦しんでいるその金持ちでさえ、本当には悔い改めているとは思えません。

 

ファリサイ派の人々は、「神と富とに仕えることはできない」とのイエス様の言葉をあざ笑いました。ファリサイ派の人々は富に執着していたからです。そして、『16:16 律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。』とイエス様はお話になりました。つまり、律法と預言者による旧約の時代がおわり、福音が全ての人に解放されているということであります。天国は、ファリサイ派の人々のような金持ちの物ではなく、乞食をしていたラザロのような人こそが招かれる。救いは、誰にでも与えられるのです。そして、その福音に与るためには、福音を聞く私たちが、神様の言葉を受け入れ、そして行動をすることです。・・・少し注目したいことがあります。ラザロは積極的に行動をしたのでも、なにかをやり遂げたのでもありませんでした。しかし、神様の国では、そういう人にこそイエス様の恵みが与えられるのです。私たちの好き勝手な価値観に従って生きるのではなく、神様の教えに従うことを祈って求めることが大事です。そしてラザロの様に何もできないこともイエス様から頂く恵みなのです。神様に身を任せる、そして「神様が助ける者」となる。すると、そこに平安があります。「助け合う」信仰生活そして「神様の助けに与る」信仰生活どちらも神様の恵みなのです。イエス様は、すべての人を迎えようと、待っておられます。イエス様に身を任せてまいりましょう。