マタイ25:31-46

小さい者の一人に

2023年 1126日 主日礼拝  

小さい者の一人に

聖書 マタイ25:31-46

 今日から世界祈祷週間で、来週は、もうアドベントです。今日は、クリスマスの飾りつけを感話会の後ですることになっていますので、皆さんご協力願います。今日の聖書は、マタイによる福音書からです。何か、トルストイの「靴屋のマルチン」を思い出しますよね。たぶんですが、トルストイは、この聖書の箇所を物語に書き下ろしたのだと思います。

 さて、聖書では、右と左に特別な意味があります。新共同訳聖書では、今日の箇所で右左をどちらから見てなのかを訳していませんが、元のギリシャ語には、人の子である王から見ての右左と明確に書かれています。つまり、王から見て右が聖書に書かれている右であります。同様に、ユダヤでは、向かって左の席が上席であります。王から見て右つまり王に向かって左は、正しいとか義であるとか、罪がないことを意味します。その証拠ですが、正しい人(ディカイオス:δίκαιος)というギリシャ語は、義人や右(デクシオス:δεξιός)のことをを意味します。一方、左(ユーオノモン:εὐώνυμον)は、ギリシャ語で「良い(ユー)名前(オノモン)」という言葉です。そしてまた、「善いことの起こる前兆」という元々の意味がありました。しかし、実際の使い方は違います。日本語の「適当」や「いいかげん」が、真反対の意味 つまり、良好な管理がされていない状態を表す言葉に変わったように、左は、悪いことの起こる前兆や不運を指す言葉に変わったようです。

 それから、もう一点。羊と山羊です。当時、羊と山羊はしばしば一緒に育てられていたようです。そして、羊は善人を山羊は邪悪な人を象徴しています。ですから、羊を「人の子」の右に、山羊を「人の子」の左に置いたわけです。 このことを念頭に置いて、今日のみ言葉に入りましょう。


 今日の箇所の中心はイエス様です。最後の日を始めるのも、終わらせるのもイエス様です。イエス様は最後の日、六つのことをすると予告します。一つずつ見ていきましょう。

マタイ『25:31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。』

 この箇所に二つのことが書かれています。一つ目は、「イエス様が来る」。イエス様は、終わりの日に天から降って来ます。これはイエス様の再臨を示します。イエス様が戻るその目的は、正義と公正を完成するため、そして裁きをするためです。

 二つ目は、イエス様が栄光の座に着くことです。座に着く、つまり、正式に王の王となることを示します。このことは、全ての人がイエス様の権威を認め、そして、その裁きに従う王国が誕生することを指します。

三つ目。『25:32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、25:33 羊を右に、山羊を左に置く』

 羊飼いは、羊と山羊を分けます。羊と山羊は一緒に放牧していたので、羊の群れの中にも山羊が混ざりました。なぜ、一緒に放牧しておきながら、羊と山羊とを分けるのか? よくわかりません。聞くところによると、羊は群れで寝るため、夜は、羊と山羊を分ける必要があったようです。

 それが、四つ目です。イエス様は羊飼いのように、羊と山羊を別々にします。そして、「羊をイエス様から見て右に、山羊を左に置きます。」

 当時、例えば王様から見て右側に座る人は、特別な人でありました。

マタイ『26:64 イエスは言われた。~あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」』

 このように、イエス様自身が神様の右に座ることを予告しています。イエス様が「神の子メシア」と言う、特別な方だと言うことです。

 イエス様は良い羊飼いです。私たちには誰が羊で、誰が山羊なのかは、わかりませんし、そう言う権威も能力も持っていません。人々を義人と邪悪な人に分け、裁く権能を持っているのは、イエス様のみなのです。

五つ目のこと。イエス様は右側にいる人々に言いました。「来てください」と。新共同訳聖書で、「さあ」と訳されている言葉は、そもそもの意味が「来てください(デウーテ:δεῦτε)」との招きです。羊飼いであるイエス様は、羊である正しい人々に「私のところ、私のもとに来なさい」と招きました。そして、次のように言います。

『天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』  

 イエス様のみもとに行くことができることは、私たちに与えられた大きな恵みです。王様のところに行くためには、まずは呼ばれなければなりません。この世の王様であるイエス様のもとに呼ばれた正しい人たちに、御国を受け継ぐ恵みが与えられるのです。

 そして、最後の六つ目です。イエス様は山羊に「離れ去りなさい」と命令します。

『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。』

 これは多くの人にとって、怖ろしくて、受け入れ難い箇所です。しかし、これは終わりの日に行われる、イエス様の裁きのことであります。このイエス様の予告にあるように、呪われたくはないですね。

 これら6つを終わりの日、裁きの日に起こすことを、イエス様は予告したのです。

その裁きの基準は、『25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』と、『25:42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、25:43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』でした。

 ところが、正しい人たちも、邪悪な人たちも心当たりがありません。そもそも王様に会った憶えもありません。ですから、何かを王様にしてあげる機会はなかったはずだからです。そこで、イエス様はこのように教えます。

『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』そして

『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』

 最も小さい者とは、背丈や年齢を言っているのではありません。社会的な弱者のことを指します。人は、どうしても強い者、そして声の大きい者の方を向いてしまいます。ですから弱い者、声の小さい者は、社会全体で取り残されがちです。特に、助けが必要な人は、声さえ出なくなるほど弱っているかもしれません。貧困のため、食事が十分にとれない人もいれば、病で寝たきりの人や、社会的に孤立している人などは、手助けが必要です。また、犯罪に手を染めた人も、社会復帰するためには、手助けが必要であります。ところで、私たちはそんな時に手を貸せるでしょうか? 相手は、最も小さい者ですから、助けても特に報いはありません。また、大声でその手助けを褒めてくれるわけもありません。そして、払う犠牲は、それなりの重荷であります。最も小さな者を助けるときにも、肉体的にも、精神的にも疲れます。また、霊的な戦いもあると思います。ですから、人を助ける時は少なからず、時間とエネルギーの犠牲が前提にあります。

 ところでです。助けるとは、どれだけ大変な事か?私の経験をお話ししたいと思います。私の父は、2017年に亡くなりましたが、それ以降母が一人暮らしになりました。私は、当時横浜市に単身赴任をしていました。それが、母が一人暮らしになって以降、母の住む茨城の銀行、町役場、ケアマネージャー、民生委員から、仕事中に呼び出しが度々あるのですね。その都度急遽休暇を取って、茨城に向かうわけです。呼び出しは、母が認知症が原因で、窓口での意思疎通がうまくできないのが原因でした。父の死亡によって、あちこちから手続きのための紙が届いたこともあり、それを処理しようとして迷惑をかけていたのです。とにかく、このままでは、仕事にならないので、生活基盤が損なわれてしまいます。ですから、町に要介護者として認定してもらい、関係者との協議をして、身の安全の事もありスグに施設に入ってもらうことにしました。他の案として、仕事をやめて長崎と茨城の二重生活をするか、長崎に引き取るかの選択肢がありました。いずれを選ぶにしても、わたしと家族の生活への影響は甚大です。そして、付け加えなければならないのは、ケアマネージャー、町、民生委員、医師の手によって、私と家族の生活は、助けられたことです。彼らは、時間を作ってくれたほか、順番待ちになっている手続きを優先してくれました。そして、窓口などで母の対応をして下さった方々の助けがあって、私は大いに助かりました。

 時として、助けることは自分が倒れてしまうほどに大変です。イエス様は「小さい者を助けなさい」と教えます。人を助けるにはかならず、犠牲が伴います。時間、エネルギー、気力。そして時としてお金を使うかもしれません。それでも、イエス様は教えます。 最も小さい者だと思っていた人は、イエス様なのであります。イエス様があなたの家のドアをノックし、食べ物が欲しい、飲み物が欲しい、泊まらせて欲しい、服が欲しいと言われたらどうするでしょうか? きっと、喜んで対応するでしょう。イエス様を愛しているからです。そしてイエス様は、最も小さい者がご自身であると言いました。イエス様を愛する者ならば、イエス様が愛する「最も小さな者」も愛するはずです。イエス様は、この最も小さい者の中にいて、私たちに助けを求めているのです。

 私には、イエス様の愛を実践しなかった時がたびたびあります。あの時、何故何も言わなかったのか?あの時、何故助けようとしなかったのか?。そして、知らないふり、忙しいふりをして通りすぎた経験は誰でもあるのではないでしょうか?

 終わりの日には、神様の裁きがあります。その前に、左の山羊でもある私たちは、右の羊となるように招かれています。それに答えましょう。そのためには、私たちの周りにいる一人一人を「イエス様が愛する人」だと認識することです。その一人一人の救いのためにイエス様は十字架で血を流して犠牲になった。その一人一人にイエス様は、愛を注ぎ、寄り添っておられるのです。だから、私たちはイエス様と同じように、小さい者を愛し、助けたいですね。それには、祈りが必要です。祈って、イエス様から頂いたその愛を小さい者に届けましょう。