マタイ26:36-46

御心のままに

2021年 3月28日 主日礼拝  

『御心のままに』

聖書 マタイ26:36-46

 受難週になりました。今日は、棕櫚の日曜日、イエス様がエルサレムに入城した日です。

棕櫚の日曜日とは何か?と言うと、ゼカリヤ書の預言にあります。

ゼカリヤ書『9:9娘 シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。』


 このように、旧約聖書の中で、ロバに乗ったイスラエルの王(イエス様)のエルサレムへの入城、それによってもたらされる救いが預言されていました。

その預言に従ったのでしょう。イエス様は、エルサレムに入る直前に子ろばを手配しました。その子ろばには服がかけられました。そして、群衆は子ロバの進む道に服をかけ、棕櫚の小枝を敷きました。歓迎をしているわけです。この歓迎の仕方にも訳があります。王を迎えるとき、道に服をかける風習 (列 王記下9… 13)があったようです。

 また、復活の1週間前の日曜日に、イエス様がエルサレムに入城されたことから、棕櫚の日曜日(Palm Sunday)と呼ばれています。そして、今日から受難週です。どうか、一週間イエス様の十字架を覚えてお過ごしください。

 

 イエス様は、いよいよ祭司長たちに狙われていました。今日の聖書の箇所が終わると、イエス様は捕らえられてしまいます。そして、イエス様は十字架にかけられます。イエス様は、何か罪を犯したわけではありません。

しかし、ユダヤの指導者たちによって、捕らえられてしまいました。そして、最も重い刑である、十字架刑で処刑されたのです。

 なぜ、イエス様は、罪を犯していないのに、このような目に合わなければならなかったのでしょうか? 

イエス様は訴えられて、そして裁かれました。訴えた側の人々は、イエス様の存在が邪魔だった。裁いた側のローマの総督やその部下たちは、群衆が暴動を起こさないように、祭司長たちや群衆と妥協をした。・・・
 簡単に言ってしまえばこれが理由です。つまり、きわめて人間的な都合でしかありません。このように、正義よりも都合が優先された結果、「イエス様を十字架にかけることを選んだ」と言えます。このような、正義が顧みられなくなることは、古い時代に限った事ではありません。法律や倫理で正義について教育されている現代社会でも、まだまだ、起こっています。これは、私たち人間の永遠の課題だと言えるでしょう。私たちは、正義ということを知っていても、実践することは難しいです。だから、私たちにはイエス様の力が必要だという事を知っています。そういう弱い私たちのために、イエス様はこの世に降ってこられたのです。

 なぜ、イエス様が十字架にかけられなければならなかったのか? そのもう一つの答えが、あります。私たちは時々神様を忘れるのでしょうか? 私たちは自分の都合で正義を引っ込めてしまう事があります。神様は、その私たちのためにイエス様をこの世にお送りになりました。神様は、御子であるイエス様を十字架の犠牲にすることによって、私たちの罪をお赦しになったのです。神様は、私たちが罪から解き放たれることを望んでおられるからです。


 イエス様は、神様から与えられた使命を果たす前に、ゲツセマネの園で祈りました。イエス様が、伝道して回ったのも、そして祭司長たちと衝突したのもすべては神様のご計画です。イエス様は、これから起こる十字架の出来事を前に、神様に祈ります。イエス様と弟子たちは、最後の晩餐のあと賛美をして、ゲツセマネの園に出かけました。ゲツセマネの園は、エルサレムの城壁を東側に出て、キドロンの谷を越えてすぐの位置にあります。この園は、オリーブ山に植えられているオリーブの実を絞っていた場所(ゲッセマネ:「オリーブの油絞り」と言う意味のアラム語)のようです。過ぎ越しの食事をするのは夜ですし、その時は安息日ですから、オリーブを絞る場所には、作業をしている人はいません。イエス様は、そういう静かな所で祈るために、エルサレムの街を抜けて、ゲツセマネの園に出たのだと思われます。イエス様は、そこで弟子たちに起きているように言って、ペトロとヤコブ、ヨハネを連れて祈りに行きます。そして、イエス様は少しだけ離れて祈りました。祈りおわって、3人の弟子たちのところに戻ると、3人の弟子たちは眠っていました。イエス様は、また祈りに行きましたが、祈って戻ってくると、3人の弟子たちは同じように眠っていました。そして、それをもう一度繰り返します。 


イエス様の祈られた内容は、「御心のままに」という内容でした。イエス様は、神様の計画、イエス様を十字架に掛けて犠牲とされることを知って、神様にこのように祈ります。

『「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」』

2回目は、このように神様のご計画を受け入れ、そして祈ります。

『「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」』

そして、最後にもう一回、2回目と同じように、確認するように祈ります。

『「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」』

イエス様と弟子達がいた場所は、オリーブを絞る場所ですから、石でできたすりばちが数個ある程度の場所で、さほど広くはありません。そして、イエス様とペトロ達が居た場所の間は、ルカ(22:41)によると、小石を投げて届くほどの距離(a stone's cast)ですから5mくらいでしょうか?。その3人の弟子たちは、そんな近くに居ながら眠ってしまいました。イエス様の必死の祈りが感じられる距離にいるのに、寝てしまうのです。弟子たちは、明け方の4時近くになっていたので、たぶん眠たかったのは間違いありません。それを割り引いたとしても、先生が必死に祈っている間、祈って待つどころか、起きて待つこともできなかったのです。しかも、3回ともです。

 

ここにいたのは、ペトロとヤコブ、そしてヨハネです。イエス様の側近中の側近です。弟子たちは、最後の晩餐の時にユダが裏切ることをイエス様から聞かされています。それだけではなく、オリーブ山まで歩いてくる間にイエス様は弟子たちにこのように言っています。

『今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。』

イエス様は弟子達とコミュニケーションを図っていてこれから起こることを予告していますし、これほど必死の祈りをしていたのに、弟子たちは眠ってしまいました。弟子たちのだれもが、イエス様と心を合わせて一緒に祈ることができなかったのです。ただただ、眠気に勝てなかったのです。皆さんが良くご存じの様に、このあとすぐあとの箇所に、ペトロがイエス様のことを3度知らないと言ってしまう場面が出てきます。イエス様と一緒に捕まる事への恐怖に負けてしまうペトロですが、このゲツセマネの祈りの記事から見ると、ペトロにはイエス様に従って行くための心の準備ができていなかったのだと思います。ペトロだけではありません。イエス様の十字架の時、そして復活の日の朝の墓でそこにいたのは、イエス様の傍にいた女性たちでした。12弟子は、みなその場にはいなかったのです。たぶん、恐くて逃げだしてしまったのだと思われます。

 

 イエス様は、「御心のままに」と神様に祈りました。イエス様の十字架の出来事が神様のご意志であれば、それを受け入れますという祈りだと言えます。そして、イエス様は、弟子たちの為にも祈られたに違いありません。この様に、イエス様に従おうと思っても、思ったようにできない不器用な弟子たち。しかし、その弟子たちを神様は用いられて、イエス様のことを証しする事になるわけです。イエス様は、その弟子たちの将来の働きについても一緒に祈ったに違いありません。そうして、弟子たちも、神様の「御心のままに」伝道者として固く立てられたのです。

 

 イエス様は、この弟子たち 決して強いとは言えない者たちを見捨てることも無く用いられました。そして、イエス様自身は弟子たちに、ある意味で捨てられてしまうのです。しかし、イエス様の十字架の出来事の時逃げてしまった現実を通して、弟子たちはイエス様から力を頂いて、イエス様に祈って従って行った。・・・こうして、弟子たちが強く立てられたのです。順調に育ったのではなく、十字架の出来事の前に逃げ出してしまって、挫折を経験する。それが、かえって弟子たちの信仰を強められたのでしょう。それは、自分の力ではどうしようもないことをさんざん体験させられて、復活されたイエス様に祈った。だからこそ、できたのです。もし、彼ら弟子たちが完璧であったならば、自分の力で何とかしようとして、イエス様の力に頼ろうと祈ったでしょうか?この出来事の一つ一つが、神様の「御心のままに」とのイエス様の祈りの結果だったのだろうと、思うのです。

 

イエス様の教えに学びながら、イエス様に従ってきている。私たち、イエス様を信じる者は、良い意味でそう思い込んでいるところがあります。しかし、それは、「イエス様を裏切らずに従っていける」との根拠のあいまいな自負なのではないでしょうか? それは、この時の弟子たちと似た状況かもしれません。イエス様の弟子達は、この時はまだ、イエス様に従って行けるとしか、考えていませんでした。

 疑いようもなく、弟子たちは、イエス様を信じて従おうとしました。しかし、弟子たちはイエス様が捕らえられるとき、恐くて逃げたのです。・・私たちも、同じような場面では、たぶん弟子たちと同じように逃げ出すでしょう。

 

 でも、イエス様は弟子たちが逃げたことは、責められませんでした。むしろ、その体験を通して弟子たちが変えられたのです。そうして、弟子たちはイエス様のみ言葉の伝道に旅立ったのです。

 

それは、イエス様が「御心のままに」と神様に委ねて祈った結果だからです。イエス様自らが、私たちの罪の償いを望んで、十字架にかかられたからです。

 

イエス様御自身がその十字架の出来事によって、私たちの「不信仰を」そして、その「罪」を負われました。ですから、私たちはすでに許されているのです。・・ 感謝です。・・

私たちが生まれた時には、既にイエス様が来られていたわけですから、私たちは私たちの罪を知る前から、その罪が赦されています。そして、イエス様から『御心のままに』と祈ることを教えて下さいます。私たちは、色々なことを神様に祈りますが、私たちが祈った通りになる前に、神様のご計画の通りになることが、望ましいです。なぜなら、多くの人々の祈りがイエス様によって、聞き入れられてほしいからです。ですから、イエス様に委ねて祈るのであれば、私たちの祈りも、イエス様によって変えられてきます。そうして、祈りつづけることで、イエス様は必ず答えてくださいます。そればかりか、私たちの想像を超えたことまでを起こしてくださるのです。その様に、イエス様に信頼して、イエス様に祈りながら信仰生活を歩んでまいりましょう。

 

 今週は、受難週、来週はイースターで、新年度となります。私たちのこれからの生き方、教会の将来の事、大事な課題はイエス様に委ねて、祈っていくといいですね。

そして、一つ一つの課題に対して、『御心のままに』なったことを、分かち合うときが来るまで、その祈りを何度も何度も続けてまいりましょう。