ユダヤ教では、契約も約束もすべて律法に基づくと考えます。つまり、「律法を守るなら、約束のものを得られる」という考え方です。所謂、律法主義と言われるものです。パウロはこの律法主義を反駁(はんばく)しているのです。パウロは、神様の恵みの契約に基づいて律法があるという考え方を論証しようとしているのです。
1.信仰によってアブラハムの相続人に
『3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。』
遺産相続を考えてください。親のものは、子どもたちで分け合うことが出来ます。私たちは、信仰を告白して、キリスト・イエスと繋がったので、「神の子」となりました。キリストによって、私たちは神様を父と呼ぶことが許されているからです。同時にそれは、神様の賜物を子供たちで分ちあうことが出来るその資格を得たことを示します。その証拠として、私たちはバプテスマを受けました。そして今、キリストを着ています。着ると言う言葉は、神様の恩寵により贖罪されていることを指します。それは神様の一方的なあわれみによるものです。エデンの園で「皮の衣を着せる」(犠牲によって罪を贖う)という神様の恩寵的行為は、新約では「キリストを着る」「新しい人を着る」という表現となっています。
『3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。』
キリストを着ていると言う意味では、ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。また奴隷も自由人も、男女も区別なく与ることが出来ますし、またキリストの下に平等であります。また、キリストの犠牲によって私たちの罪は贖われたことから、私たちはキリストによって一つとされました。それぞれがキリストと堅くつながるので、私たちは完全に一つなのです。
「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら」と訳された言葉は、意識というよりも存在を意味します。つまり、人が意識してキリストを信じているということではなく、人の存在がすでにキリストに属しているということです。そうだとすれば、当然、その存在は「アブラハムの子孫」であり、「約束による相続人」なのです。「アブラハムの子孫」と「約束による相続人(たち)」は同義です。
2.神によって立てられた相続人
『 4:1 つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、4:2 父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。』
相続人について、パウロは解説を加えます。想定されているのは、未成熟な子供の相続人です。神様から頂いた財産を自由に使えるわけではなく、後見人や監督が立てられます。そして、実際には何ももたない僕と変わらないのです。
『4:3 同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。4:4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。』
未成熟な子供が、後見人を立てられるように、信仰を得るまでの間は、この世の支配者に奴隷として仕えていました。しかし、その約束の時が来て、キリストが、女から、また律法の下に生まれた者として遣わされました。女からとは、神の子でありながら人の子として との意味です。律法の下に生まれたものとは、「律法(杓子定規な運用)が当たり前の文化の中に生まれた者」の意味です。未成年は、時が満ちると一人前に歩み出すように、御子キリストが遣わされると、後見人であった律法から解放され、キリストの教えによって、信仰生活を始めるのです。
『4:5 それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。4:6 あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。4:7 ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。』
イエス様が降ったのは、律法の支配下にあるこの世の人々を贖って、キリスト者(神の子)とするためでした。ここで、強調しているのは、律法の支配下にある者を贖いだすことよりも、「神の子となさるため」の方です。
あなたがたは子であるがゆえに、御子の霊の賜物は、私たちの養子縁組の結果です。異邦人のガラテヤ人は、自分たちもまず律法の下にあるに違いないと考えたでしょう。パウロは、この反論として、「あなたがたは子であるから、律法で指導を受ける未成熟者である必要はなく、キリストを信じる信仰によって、すでに神の「子」の自由な状態にある(未成年ではない)と言っています。あなたがたの心の中にいる御子の霊は、養子縁組によって、あなたがたを子と証しします。この節は、「あなたがたは子であるがゆえに、(すでに神の愛の選びの目的において)、神様は御子の霊をあなたがたの心に遣わされた」と表現しています。
神の子---ローマ『8:9 神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。』
アッバ、父—---ヘブライ語では「アッバ」(ヘブライ語)、ギリシャ語では「父」(「パテル」)と言い、どちらも一つの子と一つの信仰の叫び、「アッバ、父よ」に結ばれています。キリスト自身のかつての叫びは、信者の叫びである「父よ、アッバ」(マルコ14:36)です。