ヨハネ1:1-3

 科学が宗教になっていないか?

2023年 2月 6日 南地区 教役者会

科学が宗教になっていないか?

聖書 ヨハネによる福音書1:1-3 

 

1.科学と宗教

 科学は、真理を求める学問です。そして宗教は、広辞苑を引くと

『神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事』とあります。

単純化して言えば「真なる神を求める信仰」ですから「真理を求める」と言う意味では、科学と宗教は同じ目的を持っているわけです。そして使う手段が「理論」と「信仰」であります。理論的に積み上げて証明できることは疑う余地がありませんから、信仰の対象とはなりえませんし、他人が不思議な出来事を信じていることに対して理論的に真実ではないと証明することはできません。そういう意味で科学と宗教は、同じ真理を求めることに目的はありますが、アプローチが異なるのだと言えます。その一例として進化論を題材に議論したいと考えます。そもそも、この世の始まりは何だったのか?との真理は科学と宗教どちらでも、重要なテーマであります。


2.進化論に寄せて

 昨今の風潮では、「科学を神の代替え物としてしまっているのではないか?」と危惧されます。なぜなら、科学に疑いを持たない一方で、神や聖書を理論的に批判しようとすることがしばしばみられるからです。本来、科学は仮説に対して、「理論的に批判をする」ことで、発展してきました。科学こそが、論理的に批判され続けなければならないものです。それがいつの間にか、批判的になることを放棄しているように見えます。つまり、教えられるままに受け入れ、「理論的に批判をする」ことを忘れているのだと思います。

 一方で、神による数々の奇跡を書き記した聖書は、そもそも「信じがたいこと」ばかりが書かれています。聖書は、信仰の書なので、論理的に批判する対象ではありません。ところが、「人の作った科学」(神の摂理の一部を読み解いたもの)に依存しすぎて、奇跡物語を科学的ではないと否定する風潮があるようです。いつのまにか、神より科学が偉大なものとされて、科学で人間が世界中を手に入れたように勘違いをしてしまうわけです。その結果、神の摂理を科学が(人間が)追い越したような勘違いをしているのかもしれません。だから、いとも簡単に「科学を出汁にして、神を裁いている」のです。

それは、もはや神様を知らないことによる「科学への迷信」と言えるでしょう。


 そこで、みなさんがほぼ「信じているだろう」進化論を代表として取り上げてみました。神話で始まり、仮説があって、立証されたものもあります。神話と書いたのは、聖書の奇跡物語は、事実だと立証できませんし、あり得ないと立証することもできません。ですから、「そのまま丸呑みして信じる人」もいれば、「理論的には議論が出来ない」とする人もいます。また、仮説は 監察結果や論理的推定から、自然の法則を想定する作業です。仮説の段階では、正しいかどうかはわかりません。ですから、立証作業をするわけですが、その証明されている範囲に気を付ける必要があります。(例えば、亀の話を人間に適用できるか?⇒ それはそれで証明がいります)


a.古典的進化論(古代ギリシャの神話)

 古代ギリシアの哲学者アナクシマンドロスは、生命は海の中で発展し、のちに地上に移住したと主張。(ギリシャ⇒ローマ⇒イスラムへとこの説が伝わるなか。蒸気から水、鉱物、植物、動物、そして類人猿から人へと進む生命の発展へと神話の範囲が広がってきた。進化の樹形図が垣間見られる)


b.ダーウィンの祖父の研究(同じ祖先から多様な種が生まれるとの仮説)

 ダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィンは1796年の著書『ズーノミア』で全ての温血動物は一つの生きた糸に由来すると書いた。


c.ラマルクの進化論(生物は何度も物質から自然発生によって生じるとの仮説)

 使用・不使用によって器官は発達もしくは退化し、そういった獲得形質が遺伝する。従って非常に長い時間を経たならば、それは生物の構造を変化させる、つまり進化すると考えた。


d.証明されている進化論(種の起源:科学的に仮説を立て、限られた範囲にて立証したもの) 

 自然選択によって、生物は常に環境に適応するように変化し、種が分岐して多様な種が生じる。

(後にメンデルが遺伝を見つけ、そして遺伝子や突然変異も知られると、種の起源の根拠は補強された。つまり、突然変異で生物の種に変化が出て、たまたま より環境に適した突然変異をしたものが生き残ることが、膨大な時間をかければ起こりうると言える。しかし、猿が人間になるなどと言った大きな種の変化については、種の起源では言及していない。)


e.聖書

ヨハネ『1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

    1:2 この言は、初めに神と共にあった。

 1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つ

  なかった。』


 かなり、おおざっぱに生命の起源と変化についての「思想」を並べてみました。このなかで、みなさんの知っている進化論は、どれだったでしょうか? 一般的に言われている進化論は、a,b,cを組み合わせたものではないかと思われます。それは、神話や仮説であって、立証されていません。もちろん、聖書の言葉も立証できないと思われます。ダーウィンの種の起源も、立証されてはいますが、かなり限定した範囲の観察によって可能性を証明したのであって、進化のプロセスまでを観察したわけではありません。しかし、多少の環境の違いによって、首が長い亀だけが生息する島があった のは確かです。それを受けて、「亀が他の種類の動物に進化する」としたならば、仮説としては科学者から否定されることはありません。ところが、立証されるまでは、仮説であり続けます。つまり、首の長い亀の実例を根拠に「多種の動物への進化」は範囲が広すぎるので、可能性でしかないのです。つまり、別に証明が必要になります。

 このように証明されている範囲が極めて小さいにもかかわらず、進化論は証明されたものとして人々の中で独り歩きしています。


3.進化論への誤解

 進化論に対する誤解は、ダーウィンが進化と言う言葉を使っていないのに、いにしえの世界から「進化の神話」が結び付いてしまった事に一因があります。前から信じていること(信じたいこと)に、種の起源をあてはめて、都合よく誤解したわけです。これは、いにしえの進化論を信じているだけであって、科学の論理的アプローチとは言えません。しかし、冷静に考えると、科学的アプローチなどしないのが普通なのです。つまり、科学によって立証できているとの「受け売り」を聞いて、それを丸呑みしていることが多いです。理解するより前に、教えられることを信じているのです。これが行き過ぎては、まるで宗教です。しかし、私たちはすべてのことを見て経験して知ることはできませんから、誰かが教えることを信じることも必要です。逆に、教える側はそれなりに理解して教えなければなりません。


 ダーウィンの「種の起源」は、キリスト教コミュニティにも受け入れられていました。しかし進化論が、イデオロギー的なプロパガンダに巻き込まれたこと(進化論は、弱者切り捨て/神の関与が無い/動物と人間の違いがない等の批判)で、キリスト教徒は「悪意のある仮説」であると進化論を批判しました。宗教による科学への弾圧です。また逆に、創世記が当時の知見と世界観で書かれていることを理解しないがために、「科学的でない」「ただの迷信」などといった不毛な議論となっています。「科学」と「宗教」は、相容れないものではなく、どちらかの価値基準や経験値で一方を裁くよりは、どちらとも真理であることを受け入れていく。この姿勢が、必要であると考えます。


4.科学が説明できない生命の神秘

 ところで、進化論よりももっと深い神秘があります。それは、生命の誕生です。「物質さえあれば、生命が生まれる。そこには神の関与はいらない。」との見解を持つ科学者(例えばラマルク)はいます。しかし、地球で最初の炭水化物、地球で最初のたんぱく質はどうやってできたと言うのでしょう?炭水化物もたんぱく質も生物だけが造ることが出来る物質です。それに、熱に弱く約300℃の熱で完全に分解してしまいます。地球が生まれたときに、高熱だったことが真実であるならば、炭水化物もたんぱく質も生物も存在できせん。いったいどこから生物しか作れない生物の原料が、地球にもたらされたのでしょうか?

 そして、ラマルクが主張したように炭水化物とたんぱく質を保管して長い間待っていれば、生命が生まれるのでしょうか? かなり疑問です。キリスト者として、やはりそこに神の関与がなければ、何も生まれないのだと信じているわけです。そして、生命の誕生と比べるとマイナーな問題ですが、遺伝子が突然変異で組みかわっても、人為的に組み替えても、その結果は特徴に差があるだけで、別の種類の生物が生まれるわけではないことです。つまり、大きな種の変化については突然変異では説明ができないのです。ですから、「進化などない」のか、もしくは、仮に進化することは事実だとしても「進化のメカニズムはわかっていない」の どちらかとなります。そういう意味で、生命の誕生、生命の進化を語るときに、科学が解明できていない神様の摂理の巨大さや神秘さを感じます。ダーウィンの種の起源も、神の摂理が銀河系規模の大きさの神秘だとすれば、砂粒1つくらいの神秘の解き明かしだと思います。


5.進化論から見える被造物としての人間

 科学的に言うと、細菌、植物、人間を含めた生物は、基本的に同じ遺伝情報システムと細胞システムを共有しています。このことから、これらはすべて同じ起源を持っていると考えることが可能です。一方で、創世記による天地創造の物語も、あらゆる生命の起源は一人の神にあります。

 人間はあくまでも多様な被造物の一つにすぎませんが、神は特に人間を選んで神の似姿として創られました。これは、神の代理人として全被造物を世話する役割が与えられたことを意味します。

聖書に書かれている最初の人アダムとイヴは、進化論を取らなければ、本当に最初の人になります。(神様が最初に人を造られたのですから、ホモサピエンスは人に似た動物?)一方で、進化論的に言うとホモサピエンスは約20万年前に現れます。聖書が書き表す歴史が高々1万年でありますから、アダムは旧石器時代の人であると仮説を立ててよいでしょう。

 ところで、神を知る最初の人間は、いつ誕生したのでしょうか?アダムは人類最初の神と相対した人と聖書が語っていますので、新石器時代に人間に大きな変化である「信仰」を持ったと想定するわけです。この「信仰」は、人間にしか見つかっていない特性であります。ですから、「信仰」をもった最初の人は、遺伝情報システムや、細胞システムのほかに始めて信仰心のシステムを持った人と考えることが出来ます。大きな変化(big jump)がこの時起こったと考えるわけです。これは、進化の範疇をはるかに超えた事象です。なぜなら、人間以外に信仰心を持つ生物はいないからです。そして進化論では、信仰心を説明出来ないのだと思われます。創世記は、神が土の塵からアダムを作ったと書いています。ですから神は、最初から(不完全ながら)「信仰心を植え付けた」との考えもありうるわけです。

 いろいろ、話を掘り下げると、本当にわからない事ばかりでもやもやしてきます。それでは、どうしたらこれらの人間誕生の神秘がわかるでしょうか? 一つの答えは科学です。そして、もう一つの答えは、永遠にわからないということです。 科学は必ず進歩することに信頼をおいても、私は、神の神秘が解き明かされるまでには至らないと信じています。かつて、人間の力に過信し神に届こうとしてバベルの塔を建てたことと、今の科学への過大な期待は、本質的には何も変わらない(進歩がない)と思うからです。その進歩の無い人間ですから、小さな科学の発見と発展だけを根拠に神を侮る様では、神の摂理を忘れて暴走することが心配されます。いまこそ、神の言葉に戻るその必要を感じます。


6.神の作られたものへの責務

 人間は、狩猟(および採集)から、新石器による農工具の発達と共に、定住した農耕へと移っていきました。貯蔵可能な穀物類などの食料の増産に伴い、人口も増えて、社会における職業という分担化とともに階層ができました。そこには、領地・領土の問題も生じました。そうすると戦争も起こります。戦争は、キリスト教であろうとなかろうと、遠い昔からありました。

 純粋な科学理論である 種の起源が、人間の思惑によってさまざまに解釈されてきたように、純粋な神の言葉である 聖書も、人間の都合に合わせた理解によって、誤った方向に向かう危険性があります。人間は常に罪を犯す心配がありますから、いつも聖書に立ち戻って謙虚に神の言葉に耳を傾け、軌道を正していくことが何よりも大切です。

 人間は、神の傑作である地球(宇宙)、この環境を管理するという尊い任務をゆだねられました。クリスチャンは、今の大きな課題である、「地球環境」と「生物の多様性」の保護について、他のどの宗教にも増して、明確な形で、神からの責務を負っています。


7.結び

 聖書は、神が太陽や月を含めて自然現象のそれぞれを、その都度「良し」と満足して創られたと記しています。そして、生命体について言えば、推定46億年間にわたる地球上の長い生物多様化のプロセスであり、その全過程を、昼も夜も休むことなく神が係わり続けています。ですから、それぞれの自然現象には、神の大いなる愛が宿っているのです。そもそも、その自然は神の造られた摂理の一部であり、人間の作った科学は、神の摂理の一部を読み取ったものです。神が造ったものを人が加工した、それは人間が作った科学であります。また、偶像も神が造ったものを人が加工したものです。ですから、科学に過信することは偶像礼拝を想起させてしまいます。科学への信仰は、神から禁じられているのです。

 科学を万能だと、人は勘違いしやすいです。一方で、神の摂理は天地創造の時からすでにあった物なのです。そして、知られるようになったことはほんの少しだけです。学者や政治、経済、法律、技術等の多岐にわたる数知れない専門家が一生をかけて神様の摂理のほんの一部を解明したり、利用してきました。たしかに、人類は新しいしくみや物を造って、便利な世界を作り出すことができてきたのです。しかし、皮肉なことに、戦争に代わって、経済を効率化するための競争が起き、みな忙しく、そしてイライラがつのって人生の豊かさを失ってきていると思われます。また、環境破壊や大量殺人兵器は、科学によって規模が急速に膨らんでいます。科学は、多くの人の努力で支えられているので、ブレーキをかけないと行き過ぎるのです。ですから、科学を一人歩きさせないよう、統制しなければなりません。神が先にいて、神の摂理の下に自然があり、人がいます。科学は、人の使う道具ですから、すべての人の下に置かなければなりません。一部の人によって、人々の上に科学を置かれないためにです。そして、私たちには、「神から与えられたこの地球を守る」との使命を神に祈りながら、実現する責務があるのです。