マルコ7:1-13

イエス様の掟

2020年 12月 6日 主日礼拝

『イエス様の掟』

聖書 マルコによる福音書7:1-13

今日の聖書箇所を読むために、知っておきたいことがありますので、しばらくその説明にお付き合いください。

まず、最初にファリサイ派の人々です。イエス様の時代では、ファリサイ派の人々がユダヤ教の中心にいました。ファリサイ派の語源は、「罪から分かれたもの」です。そして、彼らが大事にしたことは、自分たちが作り上げて、言い伝えてきた律法です。ファリサイ派の人々は、律法を守ることによって、罪から遠ざかることができると考えていたのです。ですから、「私には罪が無い」「その罪に当たることと自分は関係していない」ということを、律法を根拠に説明し、誇りにしていました。もちろん、ここで言う罪とは、ファリサイ派の人々が言い伝えてきた律法に合っていないことを指しています。ですから、私たちが神様や人に対して罪かどうかを、相手の気持ちを汲んで悩んでいるようなことでも、ファリサイ派の人々は、「昔の人の言い伝え」に合っているかどうかで判断したわけです。ですから、ファリサイ派の人々は、神様が与えてくださった戒めではなく、「人の作ったもの」である律法に基準を置いていたのです。

そして律法学者ですが、ファリサイ派の人々とは違う律法学者という存在が登場してきます。実は、今日の聖書箇所では、だれか(τινες:ある人、誰か、someone)と書かれていて、律法学者とは書かれていません。しかし、平行記事のマタイ15:1では、律法学者の意味の言葉が登場しています。【希γραμματεύς英scribe】

 書記さんですね。律法学者の意味は簡単に言ってしまうと、記録をまとめる書記を指します。この書記と言う言葉は、もともと、聖書の写本をする人のことを指す言葉だったようです。聖書を一字一句間違わないように写本するには、律法を学んだ人が必要だったと思われます。そして律法学者はいっさい報酬を受け取らない聖書と口伝律法の注解者であって,必ず別の職業によって生計を立てていたそうです。律法学者は、ファリサイ派の人々の下で、生活に密着した律法を人々に指導する立場をとっていたわけです。

そして、「汚(けが)れた手」ですが、平行記事のマタイ(15:2)でもマルコも手を洗っていないこと指していますが、マルコによる福音書の原語では、「普通の手」とわざわざ書かれており、その手が汚(よご)れていないことが読み取れます。つまり、手は清潔にしているのですが、清めの儀式をしていないということです。それが、マタイでは、本当に汚(よご)れている手を指しているところに違いがあります。ユダヤの習慣に従って、儀式として手が清められたかどうかが、マルコによる福音書では問われているわけです。ですから、その「清めの儀式なしに食事をするのは罪だ」ということが話題となったのです。この罪だという判断は、「ユダヤの習慣として伝承されてきた通りにしていないから」ということです。もちろん、充分に清潔を保っていれば一般の人にとっては、それは省略してもよい事でしかありません。現実的に、ファリサイ派の人々以外は律法を完全に守ることを選ぶ余裕がなかったわけですから、このことで人を批判することには無理があります。

 

 食事の前に手が清潔かどうかを確認しなさいと言うのは、神様の信仰のことではなく、「良い習慣」つまり、生活の知恵でしかありません。しかし、ファリサイ派の人々と律法学者たちは、この「生活の知恵」を「神様の教え」のようにしてしまっています。たしかに、「昔の人の言い伝え」の中には、神様の教えも、生活の知恵も一緒になっていました。しかし、実際に神様から教えを頂いたものはモーセ五書と呼ばれる旧約聖書の最初の5巻だけです。他の教えは、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、いろいろな場面での宗教的行事の運用や、日々の生活指導として付け加えたものです。本来、「昔の人の言い伝え」である律法の中には、信仰にかかわる部分もあれば、「できればこうした方が良いよ」と言う生活の知恵の部分がありますから、全部が全部守らなければならないようなものではありません。しかし、ファリサイ派の人々と律法学者は、その言い伝え全体を律法だと教えられてきていますから、柔軟に考えることができませんでした。ファリサイ派の人々は、どんな小さな言い伝えですら、「守らないことは神様への挑戦」のような受け取り方をして、「律法を守りなさい」と指導したのでした。この指導では、神様の名前を使いますから、彼らの発言は良く通るのだと思います。一方で、独裁者の様になってしまう怖さもあるので、気を付けなければなりません。

 

 一方で、イエス様の方はと言うと、律法とは、モーセを介して頂いた「十戒」だという立場をとります。イエス様はイザヤ書からこのように説明します。

15:8 この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。15:9 人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』

口先だけの信仰、人の戒めを教える それがファリサイ派の人々と律法学者の姿だと、言うわけです。


 そして付け加えます。7:8『 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。』

ファリサイ派の人々と律法学者にとっては、「神の掟」と信じていたものを「人間の言い伝え」とイエス様は言われるのです。そして、なぜあなた方ファリサイ派の人々は神の掟を破っているのか?と逆に聞き返すわけです。もちろん、ファリサイ派の人々や律法学者は、「神の掟」を破ったつもりはありません。ですから、イエス様は説明を加えます。


 イエス様は、このように言われました。

『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。』

 

イエス様は、「父と母を敬え」と言う掟を取り上げて、ファリサイ派の人々と律法学者がこの掟を破っていると言うのです。律法学者のしていることを、こんな風にイエス様はたとえられたのです。

『モーセは、「父母を敬え」と教えたのに、あなた方は違っている。あなた方は、「神」に捧げると言いさえすれば、父母に渡さなければならないものを渡さないで、何もしなくて良いと言っているのと同じだ』。

 イエス様のことばを、読み解くとこの様になります。

父と母を養う子供がいます。その両親の生活を支えるためにお金を使わなければならないのですが、その子供は神様に献金すると言って、父母にお金を渡しませんでした。このお金を渡さない子供は、ファリサイ派の人々を指しています。だれでもすぐ、おやっと気が付くことですが、この子供は、神様にささげると言いながら、実際はそのようにせず、自分の懐を温めていたに違いないのです。

 

 この子供にとっての「神」とは、ただの言い訳のための道具でしかありません。神様・神様と口では言いながら、敬ってなどはいないのです。そして、父母よりも、神様 と言い訳をしながら、本当はその子供本人自身だけが大事なのです。

 

 イエス様は、ファリサイ派の人々と律法学者のことを、この様にたとえました。この指摘によると、イエス様は、ファリサイ派の人々と律法学者たちは、「神様にささげる」ため、と言いながら、親を養うためのお金までかすめ取ってしまうひどい人たちだと 言ったことになります。神様を畏れる人々の心を利用して、神様の名前を使った「むさぼり」をしていると、イエス様は指摘したのです。

 そして、さらに付け加えます。

『7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」』

 

 ファリサイ派の人たちは、イエス様の弟子たちが手を清めないで食事をしていると、裁きにやってきました。ところが、逆にイエス様に悪く言われるわけです。ですから、もし、イエス様のいう事を理解したならば相当に怒ったのだと思われます。聖書にはその後の混乱が書かれていないので、ファリサイ派の人々らは理解できなかったと考えて良いようです。そればかりかイエス様の弟子たちすら、イエス様が何を言っておられるのか理解できませんでした。なぜなら、彼らの質問「なぜ手を清めてから食事をしないのか?」にイエス様は真正面から答えていないからです。弟子たちは手を清めなくて良い理由がわかりませんでした。今日の聖書の箇所の直後に弟子たちは、イエス様にこの意味を尋ねて、ようやくたとええの意味を知ります。

 

 イエス様はそのとき、このように説明しました。人の作った「生活の知恵」は、守らなくてもほかの人の害にはならないのですが、ファリサイ派の人々と律法学者が「昔の人の言い伝え」を守るように言うだけでは、理由がわかりません。一体誰の利益になって、だれの不利益を防止できるのでしょうか? そして、それが大事なことなのでしょうか? そこが理解できない状態で、言うとおりにさせられる人々が出てしまうことは、もはや害でしかありません。

それが、イエス様のたとえの意味でした。手を儀式的に清めなくても、だれにも迷惑はかけませんが、ファリサイ派の人々と律法学者が「昔の人の言い伝え」による儀式だけを強要することは、ただただ「おせっかい」なことだと言うのです。

 

 ここで、注意が必要なことは、「昔の人の言い伝え」が悪いわけではないことです。「昔の人の言い伝え」通りにすることも、その通りにしないことも人の判断なのです。そこには、理由が必ず存在します。たとえば、「良くわからないから前例通りにした。」とか、「前例通りでは、こんな問題があって、それを解決したいから」等、自分や人のためになるように判断をするわけです。その「人の判断」でしかないことなのに、神様の名を使うのであれば、「神様の為」の様に見せ、ごまかし、強要することでしかありません。神様の権威は、そのような偽りのためにあるわけではありません。ファリサイ派の人々の様に、一般の人より力(ちから)のある立場にいる人は特に、このことをわきまえる必要があります。

 み言葉を聞く私たちも、わきまえる必要があります。イエス様は、決して私たちを裁くためにこのようなことをおっしゃったわけではありません。むしろ、「あなたは誰のために」このことをしようとしているのか?と私たちの心の奥底に、お聞きになっているのだと思います。ファリサイ派の人々や律法学者は、自分たちの権威のために「神様」の名や「昔の人の言い伝え」を用いました。一方で、イエス様は、その「昔の人の言い伝え」等の知恵を用いる時に、「隣人のため」という愛の目的にかなうように教えた方です。それが、イエス様の掟なのです。ですから、イエス様が望んでおられるのは、いまそこにいる隣人のために、考えて、実行すること。それが、イエス様の掟だと言えます。

 

 それでも、私たちは罪深いものですから、そうはうまくはできません。その私たちの心の格闘をイエス様は、ご覧になっておられます。でも、心配しないでください。私たちは、その格闘に負けても、追い詰められる必要はありません。なぜなら、イエス様はそのような私たちを、すでにお赦しになっているからです。ですから、イエス様に祈って、そしてイエス様のお示しになる答えを 求めてまいりたいものです。そのためには、具体的に人の名前を挙げて 誰だれさんのために と祈ることから始めましょう。それが、イエス様の掟のために私たちができる最初のことだからです。