マタイ10:32-44

イエスの仲間 

 1.イエスの仲間であるといいあらわす

 イエス様は弟子たちに言います。私を知っていると人前でいうならば、イエス様は天の父に「私の仲間だ」と言う と・・・

 そうでないときは、天の国には入れないという事です。しかし、この後起こる試練についても、弟子たちに知らせなければなりません。そして、弟子たちには何とかその試練に耐えてもらう必要があります。イエス様は、続けてお話されました。

2.剣をもたらすため


 これらの言葉は耳を疑ってしまいます。このまま読むと、「福音を伝えるなら、誰もが皆、喜んで信じてくれ、平和になる」と思ってはならないということです。必ず迫害に遭うから心構えとして、「迫害を受けることを覚悟し、争いが起こるものだと思っていなさい」と注意を与えられているのです。

 イエス様の言葉は現実となりました。12使徒たちはほとんどが残酷な処刑法により殉教したと伝えられています。教会の歴史は迫害と争いの歴史でした。ローマにエルサレムを占領された後には、すべてのクリスチャンがユダの国外へ逃げていかなければなりませんでした。4世紀までの時代ではローマ帝国のネロをはじめとして、4代の皇帝のもとで激しい迫害を受けました。その概要は次のとおりです。

①キリスト教の教会は破壊し、キリスト教の書物を焼くこと。
②キリスト教信者の集まりは禁止すること。
③キリスト教会の幹部を投獄すること。


 ローマ帝国だけでも多くのクリスチャンの血が流されました。それ以降も、福音が宣べ伝えられたどの国においても迫害が起こりました。しかし、神様の言葉は決して牢獄につながれることはなく、人々に宣べ伝えられ、ますます広がっていきました。

 

3.家族が敵に


 家族の反対を受けながらも、熱心に教会へ集われている方々がいます。反対に愛している息子、娘が教会から離れて嘆いている両親もいます。

 単純に家族と神様とを比べて、神様を優先しなさいと言うのではありません。もし、私たちが家族を本当に愛しているなら、家族の本当の幸せを願うでしょう。本当の幸せとは私たちを造られた創造者を離れてはありえないことです。自分は救いの恵みを与えられているのに、家族が救われることを祈らない人は、家族を愛しているといえないのです。

 

4.自分の十字架を負って

 

 「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」とイエス様が言われています。「自分の十字架」とはなんでしょうか?難しい質問です。自分ではなくイエス様の十字架に目を向けてください。イエス様はなぜ御自分がかかる十字架を背負われ、ゴルゴダへの道を歩まれたのでしょうか?

①父なる神様の御心に従うため。
②人々の罪が赦されるため。

 この二つの目的のために主イエスは十字架を背負って歩まれました。イエス様は宣教を始めようとする弟子たちに対して「自分の十字架を負いなさい」と言われたとき、イエス様と同じ思いで、宣教しなさいと語られたのです。

 

5.水一杯でも飲ませるなら

 

 イエス様は、宣教する人に対して水一杯でも飲ませる人はその報いに漏れることはない、と約束されています。迫害下にあって宣教者をかくまい、守り支える人たちは同じように厳しい迫害を受けるからです。

 福音を宣教する人と宣教を支える人が必要です。どちらの働きが偉いという事はありません。イエス様は宣教する人も宣教を支える人も同じ報いを受けると教えています。