コリントの信徒への手紙一10:1-22

偶像礼拝を避けなさい


1.イスラエルの歴史と教訓

 パウロは、イスラエルがエジプトから脱出したときのことを話しています。雲の下というのは、イスラエルがエジプトから出て行くときに、雲の柱(神様)が先導して彼らを脱出させました。そして、彼らはモーセに率いられて、分かれた紅海の中を歩いて行きました。 そしてみな、モーセについてバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。 御霊の食べ物とは、天から降ったマナのことです。それを食べてイスラエルは荒野の旅を生き長らえたのです。御霊の飲物とは、彼らが水が無くて困っていた時、御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。これだけ守られていたにもかかわらず、彼らの大部分は神様のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

 ところで、パウロは、歴史を語りたかったのでしょうか? そうではなくて、イスラエルの歴史を信仰生活になぞらえて語っているのです。神様に導かれ、そしてバプテスマを受け、日々の糧を与えられ、キリストの土台(ペトラ)の上に信仰生活を送 っているわけです。そしてモーセが岩を打ったとき、それはキリストが打たれた、十字架につけられたことを意味します。十字架のつけられたキリストによって、クリスチャンはいのちの水、聖霊をいただくことができたのです。

 具体的に、イスラエルがどのようなことを行なって滅ぼされたのかをパウロは説明します。これらのことが起こったのは、戒めのためです。 彼らが犯した過ちはいくつかありました。

 一つ目はむさぼりです。彼らがシナイ山から出発して、約束の地に向かっているときに、彼らは激しい欲望にかられて、つぶやきました。出『16:3 イスラエルの人々は彼らに言った。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」』と言いました。

 次の過ちは、偶像崇拝です。モーセがシナイ山にいて、神の律法を受けているときに、そこでアロンに金の子牛を造るように要求したのです。彼らは金の子牛の回りで、宴会騒ぎを行ない、その偶像を拝みました。  

 次に、パウロが取り上げているイスラエル人の行ないは、姦淫です。バラクはモアブ人の娘たちをイスラエルの宿営に送り込み、そのため、なんと一日に2万3千人のイスラエル人が姦淫の罪によって死んでしまったのです。 神様を試みたのは、モーセが岩を打ち水を出した時でした。試みとは、神様を試すことであります。つぶやいては、神様を試すわけです。そして、つぶやくと言うことは、神様の守りが不十分であるとの主張でり、またそれを充足してほしいとの要求であります。コラがモーセとアロンに反抗したとき、神様の裁きがありました。イスラエルの民は、「モーセとアロンが、主の民を殺した。」とつぶやきました。すると、人々が次々と倒れて死にました。つぶやきによって、神様に滅ぼされてしまったのです。

 パウロは、このように歴史的な事実を元に、忍耐を持って、ゴールをめざしなさい、と励ましているのです。神様は、試練に耐える道をも備えてくださるからです。


2.偶像礼拝を避けなさい

コリントは、偶像礼拝の町でした。ですから、彼らは偶像に備えた物を食べる機会があります。偶像とは木や石にしかすぎない。だから、そこで何をしようと私たちは大丈夫だ、と考えて、彼らは食事をしていたのです。 パウロはまた、主の晩餐式のことについて話します。コリントの教会は、ユダヤ人が守っていた過越の祭りをほぼ保って行なっていたようです。祝福の杯とありますが、これは過越の食事のときに飲む、第三杯目のぶどう酒であります。そして、パンも裂かれます。このぶどう酒を飲み、パンの分け前にあずかるとき、私たちは自分がキリストのからだの一部になっていることを示していたのです。 私たちがキリストと一つになることは、私たちも互いに一つになることです。なぜなら、神様がその一部をお食べになり、また私たちも同じものを食べているから、神様と自分とが一つになっていることを示しているからです。

 パウロは、異邦人たちが偶像にささげている物は、実は悪霊にささげられている、と言っています。ですから、偶像の前で食事をしていることは、悪霊との交わりをしていることになってしまいます。だから、偶像の前で食事をしている人が、主の晩餐にもあずかるのであれば、それは悪霊と神様を、自分を介して一つにしてしまうことになるのです。これは絶対にあってはなりません。 自分は心の中でその偶像を拝んではいない、と思っていても、実際は悪霊と交わっているのだ、ということを、憶えなければいけません。