マタイ13:24-43

回心を待つ神様

2023年 8 27日 主日礼拝 

回心を待つ神様

 聖書 マタイ13:24-43

今日の聖書は、毒麦の譬えとからし種の譬えからです。からし種の譬えは、マルコにもルカにも取り上げられていますが、毒麦の譬えはマタイだけにある記事です。毒麦といってピンと来る人はいるでしょうか?少し調べてみました。まず、小麦と良く似た植物であること。そして毒麦自体は毒を作りませんが、「菌」に感染すると、その菌が毒を作るそうです。この毒は、動物に害を与えるとの事です。当然毒麦は直接的に害であるだけではなく、毒麦が混ざった分だけ小麦が減るわけですから、すぐにでも取り分けたいものです。ところが、若いうちは小麦と区別がつきづらいので、毒麦だけを抜くのも困難なわけです。それでも無理に抜こうとしたら、少なからず小麦まで抜いてしまうことになります。ということで、収穫のときまで待つのが賢いようです。毒麦の穂は見分けが簡単なようですから、先に毒麦の穂だけをとってしまえばよいわけです。


 私たちは、どこか悪いところがあれば、即座にそれを治そうとしたり、排除しようとします。しかし、それをするには、良いころ合いがあるのです。毒麦が混ざったからと言って、生えてきたばかりの毒麦を抜こうとしたら、間違って小麦を抜いてしまったり、毒麦を残してしまいます。また、毒麦を抜いたときに、一緒にからんだ小麦の根も抜くことになります。だから、手間をかけて抜くよりも、育つのを待つ方が良いと言うわけです。私たち人間も、これから育つと言うのに、裁かれて毒麦として抜かれるとしたら、残念ですね。確かに毒麦だとわかるまで、裁きを猶予してもらって、育った結果裁かれるならば仕方がないです。しかし、毒麦ではないのに間違って抜かれたり、毒麦と連帯責任で抜かれるのは、避けなければなりません。より多くの人々が救われることを願う神様は、本当に毒麦であることを確認しない限り、切り捨てるようなことはしないのです。そこに、私たちと神様の違いがあります。


 今日のこの譬えの前の記事で、イエス様は、「種蒔きの譬え」を話しました。イエス様の蒔いた種は、すべて善い種だったのですが、蒔かれた場所によって収穫が著しく異なるとの譬えですね。今日の譬えは、同じように、種を蒔く人が「良い種」を自分の畑に蒔くところから始まります。蒔く人はイエス様です。そして、蒔かれた種は、私たちの信仰の種である「み言葉」と言っていいでしょう。


 しかし、人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去ってしまいます。毒麦も良い麦と同じように育ち始めました。毒麦を蒔いた敵は、畑に良い麦が成長するのを良く思わない悪魔だとしましょう。悪魔は、いつも人々の心が神様へと向かうことを邪魔するために、誘惑してきます。それも、「人々が眠っている間」とあるように一番油断している時を狙ってくるのです。

 さて、良い麦の中に毒麦がまぎれているのを目にした僕たちは、

『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』と主人の所に来て報告します。


 僕たちは、誰が毒麦を蒔いたのか見当がつきません。少なくとも、自分たちが蒔いた種は小麦だった。と言いたげな言葉です。この僕たちはイエス様の弟子を指しています。誰が毒麦を蒔いたのか、弟子たちは分からないのでイエス様に尋ねました。イエス様は、「敵の仕業だ」と答えます。この「敵」というのは、悪魔ですが、私たちの中にある「欲」や「妬み」もしくは、「無慈悲」という 心に内在する悪と言ってもいいのかも知れません。私たちは、神様から愛を頂いて生まれてきました。生まれた時は、悪い心を持った人はいないのですが、成長するうちに学習し知恵がつき、自分と人を比べたり、自分の都合を優先したり、相手を軽蔑したりなど知らず知らずに悪へ傾きはじめてきます。しかし、私たちの中には、人を愛したり、苦しんでいる人を見ると助けたい、という神様の「愛」も受けています。私たちの中には、「相反する二つの心が入り込もうとしている」と言ってもいいのかも知れません。


 僕たちは、主人に『では、行って抜き集めておきましょうか』と言いますが、主人は、『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。それには及ばない。』

と言って、僕たちが毒麦を抜こうとするのをやめさせます。小麦を間違えて抜くかもしれないし、毒麦と根が絡まり合っている小麦を抜いてしまわないためです。そして主人は、毒麦の最後の時についてこのように宣言します。

『刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』


 イエス様は、神様は刈り入れの時まで、私たちの心の中にたとえ毒麦があったとしても、回心するのを忍耐強く待つ と宣言しました。神様はまことに寛大であります。神様は、問答無用として毒麦を抜くことはせず、私たちの回心を待っているわけです。私たちの自主性を尊重してくださっているからです。また、私たちの良いところまで一緒に抜いてしまったりしないよう、配慮してくださっているのです。

 人生の最後まで回心することなく、終わる人もいるかも知れません。それでも、神様は、諦めることなく最後までその人の回心を待っておられます。しかし、譲れないことがあります。天の国に 毒麦が入ることは許されません。ですから、集められ「燃え盛るかまどに投げ込まれてしまう」のです。


 今日のみことばには、「毒麦の譬え」とその説明の間に「からし種の譬え」と「パン種の譬え」があります。どちらも短い譬えですが、この二つとも「天の国の譬え」であります。

からし種は、非常に小さな種ですが、ガリラヤの肥沃な土地では、木のように大きく成長するのです。同じように、天の国では神様の愛によって、どんなに小さい種でも大きく成長するのです。


 「パン種」はわずかな量でも、大量のパン生地を作ることが出来ます。このパンのふくらみ方が「天の国」を譬えたということです。 


 イエス様は、たびたび譬えを使って教えました。その理由を著者マタイがこのように解説しています。

『「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」』この言葉は詩篇78:2です。この部分の訳が正確な、口語訳聖書で読んでみましょう。(新共同訳は譬え話を箴言と訳)

詩篇『78:2私は、口を開いて、たとえ話を語り、昔からのなぞを物語ろう。』

詩篇のこの箇所は、ダビデが指揮者アサフに歌わせた歌であります。ですから、当時よく知られた言葉であったろうと思われます。マタイは「最初から隠されていたことを譬えで語るのは、イエス様が始めたのではありません。旧約の時からの伝統です。」と説明したのだと思います。


 イエス様は最後に、毒麦の譬えを説明しました。譬えですから、毒麦が小麦に変わったり、小麦が毒麦に変わったりするという、奇跡のような回心を想定していることをお赦しいただきたいと思います。終わりの日に毒麦のままの人は、天使によって刈り取られ、そして炉に投げ込まれます。一方で、一時は毒麦であっても、回心した人については、

『 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。』

とイエス様は説明しました。

そして、「耳のある者は聞きなさい」と言われます。この「耳のある者は聞きなさい」または、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言う言葉は、共観福音書(マタイに3か所、マルコに2か所、ルカに2か所)に使われています。イエス様はどんな人たちに、「聞きなさい」と訴えたのでしょうか? 一つ明らかなのは、弟子から質問があって、イエス様がその答えの中で「聞きなさい」と言っていることです。ですから、その譬えの意味を知りたいと思った人であります。弟子たちには、直接イエス様から聞く特権を持っていました。しかし、その特権を行使しなければ、譬えの意味を知ることは出来ません。イエス様のお話を聞きたいと思わないならば、いくら良い教えを聞いても、理解が深まりません。そして、どういうことなのだろうと疑問に思わなければ、そのみ言葉は膨らむことはないのです。そして、み言葉の真の意味を求めているならば、イエス様に聞く。この具体的な行動をとるはずです。み言葉を、からし種やパン種のように、大きく成長させるためには、聞く耳だけではなく、興味を持ち、そしてどういう意味であるかを考え、自分でわからない部分は、信仰の先輩に聞く。そして祈って、イエス様に聞く。こうして、み言葉は私たちの中で育っていくのです。受け身ではなく、自分なりに疑問を持ち、その答えを考えて、わからない事を聞いてみる。これが、イエス様の求めている「聞きなさい」であります。


 私たちは、「天の国」を求めています。しかし、いつもいつも油断なく悪魔の誘いを阻止できるわけではありません。いつのまにか、毒麦になってしまうかもしれません。それでも、私たちが「天の国」に入れるよう、神様は裁きの日のぎりぎりまで、私たちの回心を待ってくださるのです。神様は、誰に対しても、寛大ですから、すべての人が「天の国」に入れるよう、み言葉によって種まきをしています。私たちは、そのみ言葉を耳で聞くだけではなく、その意味を知って、行えるようになりたいです。忍耐して、私たちを導こうとしている神様の愛に応えたいからです。イエス様のみ言葉に聞き、そして悪魔に誘惑されないよう、イエス様にたよって、祈ってまいりましょう。