ルカ9:28-45

 イエスの姿が変わる

 

1.イエスの姿が変わる

 イエス様がご自身の死と復活を語られた後、祈るために山に登りました。そのとき、ペトロ、ヨハネ、ヤコブはイエス様の服が真っ白に輝くのを見ました。そこにモーセ(律法を書いた預言者)とエリヤ(最も力のある預言者)が、栄光に包まれて現れています。そして、話していることは、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」のことです。つまり3人の弟子は、イエス様の十字架の出来事をイエス様に聞いて8日たって、モーセとエリヤからも 同じ話を聞いたことになります。


 さて、3人の弟子は、それぞれ眠気を我慢してそれを見ていました。つまり、興味がなかったのです。そして、イエス様が殺されて、復活するなどと言う話に何の信ぴょう性を感じていなかったのでしょう。また、口でこそペトロは感心しているような体をしました。しかし、モーセとエリヤという、律法と預言者(預言書の事も預言者と呼びます)つまり、旧約聖書を象徴する二人とイエス様の十字架での出来事によって、新しい契約が生まれることを全く気がついていません。ですから、お付き合いのように変なことを言ってしまいます。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」


 神様の計画した救いが、これで完成する。その時が来ていることを理解する機会の二回目は、こうして弟子たちに何も伝わらずに終わりました。そこに雲が現れ、このように言います。

『「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。』

わたしの子と神様が呼びましたが、そこにいるのはイエス様だけです。弟子たちは、沈黙してしまいます。その理由は、「イエス様の事を神の子と思って、弟子になったわけではない」からです。弟子たちの望んだイエス様の姿は、神の子でもなければ、死んで復活する人でもなかったのです。


2.悪霊にとりつかれた子をいやす

 ◆悪霊(あくれい) 精神的,肉体的な病気や障害など,人間に災いをもたらす霊。「汚れた霊」(マタ 12:43)と同じ意味(マタ 8:16,マコ 1:32,ルカ 11:14,24)。(新共同訳解説)


 記事を読んでみると、この子は「てんかん」のような症状を見せています。当時は、明らかに原因がわかって直せる病気以外は、「霊」によって災いがもたらされたと考えました。ですから、悪霊を追い出すならば、病は治ると言うことになります。しかし、そこに残っていた弟子たちでは、12弟子のうちの9人であっても悪霊を追い出すことが出来なかったと、男は訴えたのです。つまり、「弟子には悪霊を追い出す権能がない」とイエス様を非難したのです。


 マタイ17:14-21では、弟子の信仰が薄いから悪霊を追い出せなかったとしています。

一方で、マルコ9:14-29では、「出来れば直してください」と言う父親の信仰についてイエス様が指摘しました。すると父親は、

「信じます、信仰の無いわたしをお助けください」と叫びます。父親が、イエス様のへの信仰を証したそのことで、悪霊は追い出すことが出来ました。


 ルカでは、そのような原因について弟子が聞くような場面はありません。むしろ、弟子たちは信仰が弱いことを自覚していたのだと思われますし、「この父親の信仰が薄いから悪霊を追い出せない」等と イエス様は言う必要がないと判断していたのだと思われます。まったく同じ物語であるのに、これだけ言っていることが違うのは、福音書の特徴です。なぜならば、福音書は客観的なイエス様の伝記ではないからです。著者がくみ取った、主観的な理解なのだということです。

 ルカは、鈍感で信仰が薄い弟子たちを、この章では表現したのだと思われます。


3.再び自分の死を予告する


 「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」

イエス様は、再びこのことを予告します。この章の流れで言うと、3度目の機会です。しかし、弟子たちは理解できませんでした。しかも、直前に信仰が薄いことで叱られているのに、まだ、自分たちの思い描いているイエス様に従っているだけで、イエス様の予告を正面から聞くことが出来ないのです。


 わからなければ、聞けばよいのですが、弟子たちは怖ろしくて聞けませんでした。聖書には、「恐」と「怖」が区別されています。( ただし、ギリシャ語は同じ φοβέομαι ) 「恐」と「怖」は、恐怖心を持つと言う意味でほぼ同じことです。しかし、客観的に恐いことは「恐」を使って、その場面で共有されない主観的な怖さには「怖」を聖書訳では採用されているように見受けられます。たとえば、ウソがばれるのが怖いのは、ウソであることを知っている個人だけですので、それを知らない人は怖くないからです。


 さて、弟子たちはなぜ怖かったのでしょう? イエス様と共有していない部分ではないでしょうか?つまり、イエス様が死んでしまうとの予告を受け入れられないし、そのことを知られたくない。そして、自分の理想とするメシアとなることを、イエス様に求めたい。そんな弟子たちの姿がうかがえます。