マルコ14:66-72

  ペトロの離反

 ペトロは、このイエス様に「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いますが、イエス様は予告します。

「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マルコ13:30)

 弟子たちがみんなイエス様についていかなかったとしても、ペトロ一人だけでもイエス様についていくつもりです・・・というペトロの宣言でしたが、イエス様はより具体的に「わたしのことを知らないと言う」と予告されてしまいました。

1.大祭司の庭にて

 ヨハネによる福音書によると、過去に大祭司だったアンナスのところにイエス様は連れていかれました。

ヨハネ『18:13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。』(大祭司は年ごとに代わるようです)

 ここでの取り調べは、最高法院ではありませんから正式なものではないため、夜でも行えます。そして、ヨハネによると、ヨハネ自身がペトロを引き連れて、アンナスの邸宅の中庭に入ったようです。

ヨハネ『18:15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、18:16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。』

 これでは、ヨハネとペトロがイエス様の弟子であることは、アンナスの家では隠しようがありません。ヨハネが、その場で安全であったことを考えると、ペトロもイエス様の弟子だと言っても、大きな問題はなかったのかもしれません。しかし、イエス様の弟子だとばれてしまうのを恐れたペトロは、目立たないように火をうつむき加減に見ていました。しかし、普段会うことがないペトロですから、屋敷の女中が目ざとく見つけます。そして、イエス様のグループを見てきていますから、ペトロに向かって言いました。

「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」

ペトロは否定しますが、その女中は周りの人々に「この人は、あの人たちの仲間です」と追及をやめません。

 すると、言葉にガリラヤのなまりがあったのでしょう。ペトロはガリラヤ出身だとばれてしまいます。

2.イエスを知らないと言う

 ペトロは3回問い詰められました。

 1回目は、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」

 ⇒(イエス様と一緒にいたことはない)鶏が鳴く

 2回目は、再び打ち消した。⇒(イエス様の仲間ではない)・・・

 3回目は、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。

 ⇒(神に誓ってイエス様を知らない)再び鶏が鳴く

 神に誓ってイエス様を知らない>イエス様と一緒にいたことはない>イエス様の仲間ではない

2回目の「知らない」に なぜ、鶏が鳴かなかったのか?と考えると、先に言った「イエス様と一緒にいたことがない」と言う嘘は、あとから言った「仲間でない」と言う嘘より酷い嘘だからとも考えられます。3回目は、神に誓う=呪う ことですから、躓かづについていこうとした、ペトロは、イエス様についていけなかっただけではなく、イエス様を呪ってしまったのです。

 すると、鶏が再び鳴きました。イエス様の予告通りだったのです。ペトロは、その予告を思い出して、泣くのでした。聖書には、ペトロが逃げ出したとは書いておりません。しかし、捕まることを恐れていたペトロが、大祭司の邸宅でガリラヤの人と見破られていて、その場所で泣いているわけにはいきません。逃げ去ったのだと思われます。最後の晩餐を守った家にほかの11人の弟子たちと一緒に隠れていたと思われます。その証拠に、そのあと、聖書の記事には11弟子が出てこなくなるからです。再登場するのは、マグダラのマリアたちからイエス様の復活を聞いた後でした。十字架の出来事に立ち会って墓まで行ってきたのは、婦人たちや、アリマタヤのヨセフだったのです。

『24:9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。』

 イスカリオテのユダは、イエス様を銀貨30枚(マタイ27:3)で売りましたが、ペテロは自分自身の命を助けようとして、イエス様を呪いました。また、イエス様に最も近いところにいた12弟子は、イエス様の十字架の死にも立ち会わなかったのです。ユダは、イエス様に有罪の判決が下ったことを知った段階で首を吊っています。(マタイ27:5) 弟子たちは、イエス様のこの言葉を思い出したに違いありません。

マルコ『8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』(並行記事 マタイ16:25 ルカ9:24)

 イエス様は、弟子たちがこのような失態を犯すことをご存じで、あらかじめ予告していました。しかし、弟子たちはそれを受け止めが不十分でした。自分たちのふがいなさを、これまでもふがいなかったと言う事を今更ながらに思い知らされました。この事によって、弟子たちは「自身の精神力」の限界を感じ、イエス様に祈ることを真っ先にし、そしてその判断もイエス様に委ねたのだと思われます。イエス様の復活と昇天の出来事を経た弟子たちは、大きく成長したのでした。イエス様は弟子たちをこの出来事を通して、伝道者として育てられたのです。