2022年 10月 30日 主日礼拝
『信仰によって』
聖書 ヘブライ人への手紙 11:23-28
今日の聖書箇所 ヘブライ人への手紙11章は、旧約聖書に出てくる人物の信仰についてのべています。アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセといった旧約聖書の代表的な人物たちの業績を、「信仰によって」という言葉でこの手紙の著者は語りました。さて、信仰とは何でしょうか? 今週の聖句として週報に載せました。
へブライ『11:1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』
このように、”「信仰とは」、希望している事が将来確実になることを信じ、見えない事実すなわち「神様のみ業」に信頼する ”ことであるとしています。信仰は、私たちの中にある確信ですが、これは聖霊によって与えられたものです。その聖霊の働きの背後には神様の約束があって、そして神様の導きがあります。ですから、「信仰によって」とは、人間に頼るのではなく、神様に頼る事と言ってよいでしょう。自分の力によって生きるのではなく、神様によって生かされる。そして、そのことを受け入れて喜ぶことが、信仰による新しい歩みの始まりとなります。
今日の聖書の箇所(へブル11章23-28節)の出どころは、出エジプト記にあります、神様の命令によってエジプトからイスラエルの民を導き出したモーセのことについてです。それでは、モーセのことを振り返ってみましょう。出エジプト記一章には、モーセが生まれた時の経緯が記されています。
ヤコブの子ヨセフがエジプトの宰相だったとき、ヤコブ一族が住んでいたカナン地方が飢饉となり、食料が無くなってしまいました。エジプトでは、ヨセフが宰相として夥しい食料を蓄えていましたから、ヤコブ一族はヨセフを頼ってエジプトに行きます。ナイル川河口付近の「豊かなデルタ地帯」であるゴシェンの丘を与えられて住むようになりました。それから年月が流れて、ヨセフがエジプトを救ったことを知っている人がいなくなる頃には、イスラエルの人々はおびただしく増えたのです。(出エジプト1:6-7)。この時代に、モーセが登場するわけです。紀元前1525年ごろに生まれたようです。この年代は、聖書を根拠にさかのぼって計算したものです。(一方で、エジプト第19王朝ラメセス2世(紀元前1290-1224年在位)の時代とする説もあります。)
さて、今日の聖書箇所の冒頭に、この言葉があります。
『11:23 信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。』
ファラオ(エジプト王の呼称)は、エジプト内に増え続けるイスラエルの民を恐れたので、苛酷な強制労働によって弾圧をしました。そして、イスラエルの民が増えないように、ファラオはイスラエルの助産婦に命令します。
出『1:16 「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。」』
それが失敗に終わると、出『1:22 ファラオは全国民に命じた。「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ。」』と命令します。モーセの両親は、生まれた男の子を三か月の間隠しました。ファラオの命令にも背くその信仰は、「その子の美しさを見た」ことによると書かれています。「美しさ」とは、神様が与えてくださった命の美しさであります。神様はお選びになって、この両親に男の子を与えてくださったのです。両親は、神様を畏れていますから、ファラオの命令があったにもかかわらず、神様からいただいた男の子の命を保とうとしたのです。その信仰によって、モーセの命は救われました。
しかし、モーセを隠しきれなくなると、母親はパピルスの籠にモーセを入れて、ナイル川の葦の茂みの中に置きます。そこに、たまたまナイル川に水浴びに来ていたファラオの王女に拾われて、モーセは命が守られたのです。モーセは王女の養子となり、母親はその子の乳母となりました。すべては、神様の導きであります。もし、両親が、王の命令を恐れたのであれば、モーセには生きる機会はありませんでした。モーセの命を繋ごうとした両親の希望は、神様によってかなえられたのです。またもし、母親がモーセをナイル川に置かなければ、モーセは王女に拾われませんでした。「モーセが生きながらえるように」との母親の希望は、神様によってかなえられたのです。
ヘブ『11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、11:25 はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、11:26 キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。』
モーセは、王女の子としてエジプトの宮廷で育てらました。王族の一人として認められていたのです。しかし、成人したモーセは、自分の同胞であるイスラエル人が虐げられている現実を目の当たりにします。
出『2:11 モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。』
出エジプト記では、このエジプト人をモーセが殺し、それがばれたのでモーセは逃げ出したと、簡単に書かれています。そこに、モーセの心情を考えてみると、そこには「イスラエル民が救われることへの望み」と「失敗による絶望」があったのだと思われます。その時のモーセは、奴隷を働かせて得た富で、豊かな生活をしているわけですから、モーセの存在自身に葛藤があったのです。モーセは、エジプトの王女の子として権力や富を持っていながら、イスラエルの同胞を打つエジプト人を恨んだのです。その思いによって、行動を起こした結果、モーセはファラオから追われる立場になります。そして、苦難の道を歩むことになりました。しかし、その先にイスラエルがエジプトを脱出して、カナンの地が与えられる。神様の導きがあります。モーセはその神様の導きに全て委ねて、そして確信しました。神様に委ねることを「信仰によって」選び取ったのです。
「キリストのゆえに受けるあざけり」とありますが、ヘブライ人への手紙の著者は、モーセの苦難のことをキリストの苦難と重ね合わせています。そして、苦難の後、人々が救われるとの希望がありました。その希望こそが「エジプトの財宝よりまさる富」なのです。
信仰とは、希望していることを神様に期待し委ねることです。人生には様々な選択をせまられる時がありますが、今決して満足しているわけではなくても、現状維持を選ぶことがあります。それは、現状が保たれると同時に、希望をかなえる可能性を自分で消してしまうことです。結局、神様に自分の希望を委ねないならば、神様の導きを頂く機会を失いかねません。ですから、私たちは、祈って、自分たちで出来ること以外は神様に委ねることが必要です。
『11:27 信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。』
エジプト人を殺してしまったモーセにファラオは怒り、モーセを殺そうとします。そこでモーセは、「エジプトを立ち去り」、ミディアンの地に住むようになります。「王の怒りを恐れず」とありますが、出エジプト記2章を読むと、ファラオを恐れたモーセは、ファラオの手から逃れたと言えます。しかし、後に神様の命令を受けてファラオと交渉するときには、信仰によって立ち、モーセの恐れは取り去られたのです。エジプトを脱出して、そして新しい土地に移住するまで、たくさんの困難がありました。モーセは、神様は導きに希望を確信しながら、厳しい旅に耐えたのです。そこには見えない方である神様がいつも共にいました。
『11:28 信仰によって、モーセは滅ぼす者が長子たちに手を下すことがないように、過越の食事をし、小羊の血を振りかけました。』
モーセは、ミディアンの地に身を寄せて四十年たったとき、シナイ山(神の山ホレブ)に登ると、神様は芝の間から、「モーセよ、モーセよ、」と声をかけられました。『さあ、今あなたをエジプトに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ』と命じます。思いがけない神様の声の前にモーセは慄きました。そして、「信仰によって」神様の導きを受け入れました。
モーセは再びエジプトに戻り、イスラエル人を解放するようにファラオに交渉します。そのときモーセは八十歳でした(出7:7)。ファラオはそんなモーセを相手にしようとしません。そこで、モーセは神様の力を示すために、エジプトに九つの禍を下しました。それでもファラオがかたくなだったので、神様はエジプト中の初子を打つという恐ろしい禍をエジプトに下したのです。その災いの中、イスラエルの家には一人の犠牲者もありませんでした。モーセが神様に信頼して指示したとおりに、イスラエルの民が家の鴨居と門柱に屠られた小羊の血を塗ったからです。そのしるしによって、災いはイスラエルの家を過ぎ越したのです。
それ以来、イスラエルの人々はエジプト脱出で起こったこの出来事を、神様に感謝し、「過越の祭」として毎年祝うようになります。小羊をほふってその血を鴨居に塗ることによって、イスラエルの人々がエジプトの奴隷状態から解放されました。この意味は、神の小羊イエス・キリストの十字架の血によって、全ての人々が罪と死の支配から解放されることです。
イスラエルの民が危機に立たされたとき、神様は救いの手をくださいました。そして、エジプトからの解放をなしとげられたのです。その過程では、様々な奇跡が起きました。ここで起こった奇跡はイスラエルの民の「信仰によって」もたらされたものです。イスラエルは、多くの失敗を繰り返しましたが、失敗をしても神様に立ち返り、「信仰によって」神様に従ったのです。
イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年でした(出エジプト記12:40)。奴隷となっていたイスラエルの民がエジプト脱出を果たし、幾度もあった危機をのりこえて約束の地に帰還しました。彼らが国を築くことができたのは、神様への信仰によるものでした。私たちの信仰は、神様の導きによって与えられ、育てられます。そして、神様は私たちの「信仰によって」奇跡の業を計画されるのです。
モーセの信仰による出来事を通して、「信仰の歩みは、神様の計画と導きのもとにある」ことが示されました。そして、神様は私たちと共におられます。
エフェソ『1:13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです』
わたしたちはキリストの福音を聞きました。聖霊は、キリストを信じる私たちの「信仰によって」、私たちの額に「キリストのしるし」を付けました。私たちは、良い知らせを聞いて、キリストによって希望が与えられると確信し、すべてをキリストに委ねたのです。私たちのイエス様を信じる「信仰によって」この希望を与えてくださる神様、そして共にいてくださる神様に感謝しましょう。