1.種のたとえ
この記事の前にある種蒔きのたとえと同じですが、ここでは蒔かれた土地ではなく種そのものの話題です。
『4:27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。』
これは、私たちが日常生活を送る中で、気づかないうちに、みことばに私たちが育てられていることを示します。みことばを聞いて受け入れているうちに、いつの間にかキリストの似姿に変えられているのです。
『4:29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」』
この「人」とは、イエス様ご自身のことです。イエス様が再び来られるときに、私たち結ばれた実を刈り取りに来ます。イエス様は、私たちが実を結ぶために私たちを選びました。
『神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。4:31 それは、からし種のようなものである。』
イエス様は、神の国はからし種のようなものだ とたとえます。からしの種は、本当に小さくて、一粒一粒を目で見るのも困難なくらいです。その地に蒔かれるときには、小さくて見えないのに、それが成長すると、どんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。
このたとえでは、実がなることにはまったく触れていません。注目しているのは大きな枝です。イエス様が育ちそして伝道したガリラヤ地方は、気候も土壌も極めてよく、どの農作物も普通よりもかなり大きく育ちます。神の国も ガリラヤで野菜が良く育つように、 み言葉が大きく育つということでしょう。
イエス様は、多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて話しました。それならば、理解できなかった人はいなかったことでしょう。しかし、弟子たちもそのたとえがわからなくてイエス様に聞きました。そして、イエス様は、すべてのたとえの意味を教えたとマルコは書いています。(ここの記述は矛盾しています。マルコは間接的に、「イエス様の教えを弟子たちは完全に理解できている」と言いたかったのでしょうか?)
2.突風を鎮める
こうして、みことばを聞くことについて、たとえによって説明されていました。その仕上げとして、実際の出来事の中で、みことばに聞き従う と言うことを考えたいと思います。弟子たちが、実践に移す時が来ました。
『4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。』
イエス様の『向こう岸に渡ろう』とのみことばのために、こんな試練がやってきたのです。
『4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。』
弟子たちは、命の危険を感じたからでしょう、イエス様を起こして、苦情を言います。状況からみて、波が舟べりを超えてきたので、舟が沈まないように水を掻き出していたと思われます。寝ているイエス様を起こして、何とか舟を守ろうとしていたのでしょう。ここで、気になるのは、「向こう岸に渡ろう」とのみ言葉が、その通りになることについて、全く頭から消え去っていることです。つまり、イエス様を信じて同行している弟子たちは、いざ、荒波がやってくると、すぐにイエス様を信じて従っていることを忘れてしまうわけです。
『4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。』
「黙れ。沈まれ」イエス様は、この みことばを語りました。そうしたら、風と湖が言うことを聞き従いました。これは、みことばの力です。みことばは、自然現象をも支配しています。そのみことばが、私たちの心に働くのです。だから、私たちの内に実が結ばれます。私たちがどんなに弱い存在であっても、みことばの力によって強くされるのです。
『4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」』
イエス様は、弟子たちが状況にあわてふためき、「向こう岸へ渡ろう」とのみことばを手放したことを叱っています。聞き入れたみことばを試練にあっても手放さないでいるには、信仰が必要です。弟子たちは、「向こう岸に渡ろう」というみことばを聞きました。けれども、信仰が足りなかったのです。