1.ホレブ山
シナイ山(2285m)と言われているジョベル・ムーサ(モーセの山)は、シナイ半島の南端あたりにありますが、本当のシナイ山がどこにあるかは不明です。シナイ山のまたの名をホレブ山と呼びます。他にもシナイ山候補は複数あり、ジョベル・ムーサと呼ばれる場所も複数あるそうです。現在のシナイ山とされている場所は、学問的には、無視しえるそうです。なぜかと言うと、コンスタンチヌス帝の母へレナが勝手に決めた聖地であって、遺跡もありません。
2.モーセに声をかける神様
義父のエトロの羊を飼うことが、モーセの仕事になっていました。エトロは、ミディアン人の祭司でした。ミディアンは、現在のサウジアラビアの北西部です。ここは、歴史的にエジプト領だったわけではありません。モーセは、羊を飼っていますから、遠出をするわけがありません。ですから、ホレブ山は、ミディアム近辺の山だったのでしょう。そこでモーセは「芝が燃えているのに燃え尽きない」様子を見て、道をそれて見に行きます。そこで神様はモーセに語り掛けます。
出エジプト『3:5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。』
聖書に登場する多くの人物(ヤコブ、ヨシュア、ダビデ等)が、履物を脱ぐ(脱がされる)経験をしました。「あなたの履物を脱ぎなさい」とは、「今までの生き方、考え方、経験等自身に頼る歩みを捨てなさい」と受け取ってよいでしょう。それを履いていても、神の「聖なる場所」では、何の頼りにもなりません。
そして、神様はユダヤの民の痛みを受けて、モーセに命令するのです。「ファラオの所に行きなさい」とエジプトからの脱出を指示します。ユダヤの民の叫びを神様はきかれて、そして自らが動かなければならないと考えられた。そう、聖書には書かれています。 もし、神様が民の叫びを聞かれているとするならば、多くの不幸の出来事があったということは、神様は手を差し伸べる相手を選別されているのでしょうか? 一部の神学者は、そうではなくて、「神様は、直接介入されることを止めてしまった」、「神様は、何でもできるが自らその力を封印している」等と説明しています。
3.モーセの反応
「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
このモーセの反応は、当然のことと思われます。ただの羊飼いですから、なにも力を持っていません。ましては、相手がエジプトのファラオです。いくら兄弟のように育った人が相手とは言っても、王権をかけて争った相手ですから、モーセが無事でいられるはずもありません。神様が「しるし」となって、「共にいてくれる」と約束しましたが、それを信じてどこの民がついていけるでしょう? たぶん、取り合われないと思われます。モーセは、今からユダヤの民の所に行くけれども、遣わした神様の名前を聞かれたら どのようにして神様の「しるし」を示してくれるのか?を聞きました。
神様は答えます。「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
これを英語で言うと「I am that I am(that)」となります。直訳すると「わたしは、『それ』と呼ばれている者である」 神の名を口にしてはならないので、この表現と思われます。