1.群衆に同情する
『イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。』
イエス様は、精力的に村々を回って、教え、そして癒されました。しかし、まだまだたくさんの群衆が弱り果てています。その働きを必要としている人々がたくさんいるのです。次の章では、早速12弟子を選んで、それぞれが、教え、癒せるようにします。それは、この弱り果てた群衆がいつまでも、いつまでも集まってくるからです。弟子たちのイエス様の力を与えることで、癒しが必要な人が少しでも減ってほしかったのでしょう。
『収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』
群衆が押し寄せ続けるのは、やはり最下層の人たちがイエス様に求めていることがあったということです。教えでしょうか、癒しでしょうか? 律法学者やファリサイ派の人々も集まってきますが、この人たちは、イエス様の前で弱り果ててはいません。やはり、群衆はイエス様を求めていたのです。
2.12人を選ぶ
『十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。』とあります。イエス様だけでは、大勢の人々を癒すことに限界があって、弟子たちにその権能を授けました。もちろん、12人で十分なわけではないでしょうが、今できる最大のことに挑戦することを前提とするならば、だれでもそのようにしたでしょう。働き人が足りない なら、働き人を立てて、そして送り出すことが必要です。
3.12人を派遣する
イエス様は12人を選んで、派遣することにしました。そして注意を与えます。
・異邦人の道に行ってはいけない、サマリア人の町に入ってはいけない、そして「イスラエルの家の失われた羊」つまり、ユダヤ人だけ、そして世の中からはみ出したような人々を目指すように指示をしています。(まだ異邦人伝道の時ではなかったのです)。
・『ただで受けたのだから、ただで与えなさい。』とは、イエス様から無償で与えられた力なのだから、お礼は只にしなさいとの命令です。貧しい者への癒しにあなた方を派遣したのだから。そして、神様から授かった力で、富を得てはいけないのです。
・『帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない』 これは、何かが起こった時の備えもなく、訪問先の好意だけを頼りに旅をしなさいということです。イエス様は、最下層の人々を癒そうとして寄り添いましたから、弟子たちにもそれができるよう、このような指示をしたものと思われます。伝道者たるものは、豊かな旅をしてはいけないのです。
・『ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。』ふさわしい人かどうかは、良く調べれば判断できます。その人が受け入れてくれる場合は、その家の平和がもたらされ、弟子たちはそこで十分に働くことが出来ます。そして、弟子たちが立ち去った後も、その家には平和があるでしょう。しかし、受け入れないところも当然あります。まだ、その時でなければ、無理はできません。
4.迫害を予告する
イエス様は、弟子たちにも迫害がおよび、捕まるとその地方の法院で語らなければならないことを予告します。
また、弟子たちに耐え忍びなさいと言いながら、一つの街で迫害されたなら、「逃げなさい」とも命令します。イスラエルの町全部を回ってしまうほど逃げ回るうちに、イエス様が来てくださるから、それまで耐えるように言うのでした。
ベルゼブル:ベルゼブブ (Beelzebub) は悪魔の一人。旧約聖書『列王記』に登場する。ここではベルゼブル (Beelzebul) の名であらわれる。