エフェソ3:2-12

 神様への信頼

2022年 1月 9日 主日礼拝

神様への信頼

聖書 エフェソの信徒の手紙3:2-12       

おはようございます。新年を迎えて二回目の主日となりました。お正月休みは、皆さんゆっくりできたでしょうか? 私が、大学一年生で世田谷に住んでいたころは、三賀日はお店が開いていませんでした。元日に盛岡から東京にやってきたら、夕ご飯と2日の朝ごはんにありつけなかったことを覚えています。今は、コンビニもあり、正月に開いているお店も少なくないので、食事の心配もない半面、休日に多くの人たちが働いていることも忘れてはなりません。家族とゆっくり年末年始を過ごせたことは、休日に働かれている方に感謝するばかりです。

 今日の聖書の箇所は2節からを選びました。

1節が『3:1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。』 となっており、尻切れになっているからです。パウロは3章で、最初に語り始めた話題を中断して、別の話題に移っていきます。こうした書き方は、パウロによく見られます。パウロは手紙を力強く書き進めているとき、実は語っているのですね。手紙に書き起こしているのは弟子で、弟子の前で語っているわけです。ですから、パウロはそのとき受け止めているみ言葉に集中することができます。そして、そこに聖霊が働いて、また新しいみ言葉が彼の心に入り始めます。そうして、パウロの言葉は聖霊によって導かれていきます。ですからこそ、それは私たちに印象の強い言葉になってくるのです。

 

 今日の聖書の箇所で、「福音は人間から出た教えではない」ことをパウロは強調しています。パウロの姿と言えば、福音を手紙に書き記し、そして教えているように見えるからです。そこで、パウロはまず最初に、福音ができたのは「神様の意思」であることを説明しています。また、福音は「あなた方のため」にあることを強調します。たしかに、福音を語っているのはパウロですけれども、神様に語らされているのです。決して、パウロが福音を作ったのでもなければ、パウロは自身のために福音を教えているのでもありません。福音は神様の御心によって、私たちのために作られたのです。それは、私たち全てが神様と福音を受け入れるためにです。世界のすべての人を神様の福音に与ることによって、私たちには、平和で分け隔ての無い世界がやってくるのです。

 

『秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。』

とパウロが書いていますように、神様のご意思によって聖霊を通して福音が示されたのです。この「秘められた計画」とは、パウロ自身がこのエフェソの信徒の手紙の1章1-15節に短く書いています。代表して11,12節を読みます。

エフェソ『1:11 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。1:12 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。』

 

神様は使徒たちに「ご計画」をあきらかにしてくださいました。そのご計画は、神様のご意思の中にはじめから存在したものです。神様のもともとのご計画は、すべての人をキリストによって、御許に招くことです。そして、イエス様がこの世に降ってこられ、十字架におかかりになりました。そして、復活なされたのです。このイエス様こそ救い主であり、神様であることを使徒たちは知ることができました。そして、パウロ自身も、その神様の恵みによって計画的に導かれたことを理解したのでした。そして、そのご計画は、パウロが理解するまでは、まだ明らかにはされていなかったのです。

 

このご計画は天地創造以来、世代世代で預言者が送られていく中、明らかではありませんでした。また、神様は救いのみ業を特定の民イスラエルの民の中で準備なさいました。その時が来るまで、イスラエルだけが神様の民とされ、他の諸国民はその次の段階とされていたのです。そして、イエス・キリストをこの世に降されることで、神様のご計画は新たな展開に進みます。イエス・キリストの十字架の出来事によって、イスラエル民族だけではなく全人類の罪が許されました。また、復活されたイエス様が天に昇られたあと、聖霊が降りました。私たちは聖霊によって福音にあずかることができるようになったのです。こうして、イエス・キリストのみ業によって、ただひとつのイスラエル民族や数少ない特別な使徒や預言者だけが与るものではなく、世の全ての人々が神様のご計画の中に取り込まれました。そこには今この教会に集まってきている私たちも含まれます。イエス・キリストのみ業が私たちにも関わりがあるという事実は、私たちが生まれる前から決まっていました。神様がそのように計画されたからです。神様の計画にあって、私たちが用いられる役割は、イエス様を信じそして、そのイエス様の福音を伝えることです。すでに、私たちは神様によって大いに顧みられ、そしてここに導かれているからです。

イエス様の降誕以前は、旧約聖書しかありませんでした。その旧約聖書全体には「イエス・キリスト」という未来を目指した大きな流れがあります。ところが、旧約聖書の中には、律法、歴史、詩歌、預言書など多岐にわたり、またその量も膨大です。ですから、旧約聖書を読むには「視点」が必要です。まさに今日のみ言葉は、パウロが読み解いた「視点」だと思います。それは、「神様の大いなる救いの御計画」。これこそが、旧約聖書の中心であることに気づかされると思います。そして、このご計画は現代の私たちにとっても大切であり、旧約聖書を必要不可欠な存在にしています。旧約聖書は決して親しみを感じる本とは言えません。しかし「エフェソの信徒への手紙」に書かれているパウロの「視点」に立つと、私たちは「神様のご計画がもっと前からあった」このことを根本的に理解できるのだと思います。そして聖書全体は、イエス・キリストによる和解のみわざについて語っているのです。十字架の死によってキリストが全人類の罪を一身に引き受けてくださったおかげで、罪深い私たち人間と聖なる神様との間に和解がやってきました。神様は、このことを私たちが知って受け入れるために、福音を届け続けてくださいます。

 

また神様は、福音に仕えたいと願う人を用いられます。用いられるためには、何も条件はありません。学問とか、人間的に見てとか、力量があるかどうか、そうことは求められないのです。そして、神様はだれでも分け隔てなく用いますから、だれでも福音の恵みにあずかれるのです。

パウロは、神様の力が働くのを、聖霊が働くのをはっきりと体験しました。パウロには、キリストと教会を迫害したという暗い過去があります(「コリントの信徒への第一の手紙」15章9節)。この過去がありながら、パウロは福音の業に用いられていました。このように、パウロは福音の恵みによって、力強い伝道ができたのです。かつてはキリスト教を迫害したというマイナス要素があっても、神様はパウロを用いたのです。そういう意味で、神様は分け隔てされないのです。

 

さて、「エフェソの信徒への手紙」は、パウロが書いた獄中書簡です。ほかの書簡と違って、教え的なことや、教会の固有の問題については書かれていません。ごく一般的な教会の働きについてが、主なテーマとしています。教会はイエス様の福音を宣べ伝えますが、その宣べ伝える人が中心にいるわけではありません。その中心にはイエス様がいて、聖霊によって私たち奉仕する者に力が与えられる。それが教会だからです。そして、その教会の姿を計画されたのが神様です。ですから、パウロはイエス様を信じ福音を語るときに、パウロは神様に信頼して、その計画通りに大胆に活躍できたのです。また、パウロが福音を生み出したわけではありません。それは神様です。そして、聖霊が強くパウロに臨んだので、パウロは神様のご計画を受け入れたのです。このようにして、聖霊が福音を語る者に力を与えるのです。パウロ自身も、聖霊の力を受けて、福音を語っていたように、私たちイエス様を信じる者に聖霊が降ることにより、福音を語りそして証しする力が与えられるからです。もし、その福音が人から、例えばパウロから出たとしたら、そこには聖霊は働かないでしょう。また、人が作ったものに、私たちの信頼を預けるわけがありません。パウロが教える福音が、神様から出ているからこそ、神様に信頼し、その福音を語るところには聖霊が働かれるからです。

さて、私たちは、教会学校の開き方を変えようとしています。そして、30日の礼拝後に試してみようという予定になっています。その事の発端は、コロナ対策で教会学校をお休みしていることにあります。私たちは、安全を大事にして、「密になる」状態が連想される教会学校を休んでいました。しかし、一方で交わりの時間をゆっくり持つ事が出来ましたので、良い面もあったと思います。それでも、コロナが落ち着いたころを見計らい、その交わりの時を教会学校に戻すことを考えてきました。

そんななか、7月(2021年 7月 26日)に教会学校月間を迎え、み言葉を取り次いだのが、『すべての人から学ぶ』 聖書 マルコによる福音書 9:30-37 でした。そのなかのイエス様の教えです。

マルコ『9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」』

イエス様がお教えになったのは、「すべての人に学び、その言葉を受け入れる事。それがイエス様を受け入れることだ」ということです。そのことを宣教させてもらい、また執事会でも教会学校の持ち方を相談してきました。そして11月の信徒会でおおむねの賛同をいただいた経緯です。教会学校では、全ての人が先生であり、そして生徒です。そういう意味で、司会も発言もみな自由にすることを考えました。そして、名前も「ティータイムと感話会」と、自然体で参加しやすいことを目指しました。また、場所も礼拝堂を考えたわけです。30日にやってみて、そしてまた改善していきましょう。そもそも「教会学校」と言うと、教える人と教わる人という関係が連想されてしまい、あまり適切な呼び名ではありません。教会はそういう上と下の関係の交わりではないからです。パウロに聖霊が働いてパウロが神様のご計画を理解したように、私たちも聖霊の働きによって、参加する人の言葉から神様のご計画を理解したいと思います。そして、神様に信頼して分かちあうことによって、皆さんに聖霊が降ると信じます。

 

パウロは、喜びをもってこのように言っています。

エフェソ『3:12わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。』

パウロは、神様のご計画によって、そしてイエス様の十字架の贖いと復活によって、そして聖霊の働きによって、私たちはキリストに結ばれている。そのように喜んで、神様に信頼してその計画の一部を担っていたのです。だから、安心して大胆に語ることができたものと思われます。私たちも、こういう交わりのなかで、聖霊が働く教会を作っていきましょう。