1.バプテスマのヨハネ
『3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。』
「ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた」。イエス様はガリラヤ地方のナザレという寒村で生活をていました。ちょうどガリラヤ湖の南端から西の方にある荒野です。ヨルダン川は、ガリラヤ湖の南から死海に向けて流れていますが、バプテスマのヨハネは、その死海に近い場所で、バプテスマを授けていました。バプテスマのヨハネは、王の来訪の先ぶれをする者として出現しました。そして悔い改めを呼びかけて、人々にキリストを受け入れる備えをさせようとしたのです。ヨハネは「主の道を備えよ」との先ぶれの役目をもって現れました。それなのに、ここでは、イエス様は「彼からバプテスマを受けるため」にヨハネの前に現れています。ヨハネのバプテスマは悔い改めのバプテスマです。イエス様は罪をもたない。告白すべき罪をもちません。
ヨハネはベタニアでイエス様を見た時に、
ヨハネ『1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』と言っています。このことから、イエス様は罪の赦しを必要とする罪人ではなく、反対に罪を赦す権威をもつ救い主であることがわかります。そのお方がなぜか、バプテスマを受けるためにヨハネのもとに来ました。
この時のヨハネの反応はどうだったでしょうか?
『3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」』
「イエス様、それは困ります、勘弁してください、できません」としつこく断ったわけです。
ヨハネは「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに」と言っています。ヨハネは、バプテスマを受ける人々と同様、自分は罪人であると自覚していました。だから、むしろ、わたしこそが、あなたからバプテスマを受けなければならないと表明したのです。
『3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。』
「正しいことをすべて行うのは」ということばから、イエス様がバプテスマを受けることは、救いのために必要不可欠なことだとわかります。ヨハネはこの時、イエス様がバプテスマを受けなければならない意味をどれだけ理解したのかはわかりませんが、「ヨハネはイエスの言われるとおりにした」のです。
イエス様がバプテスマを受けられた意味を考えましょう。第一に、このバプテスマは、罪人と一体になることを表わしています。第二に、このバプテスマは教会の信徒と一体になることを表わしています。このバプテスマは悔い改めのバプテスマであるけれども、キリストの死と復活のシンボルでもあるのです。キリストご自身が私たちの先がけとしてバプテスマを受けられたのです。第三に、このバプテスマはキリストの王としての即位を表わしています。「キリスト」という称号は「救い主」を表わすのですが、「キリスト」の元々の意味は「油注がれた者」です。王、祭司、預言者の即位に際して頭に油が注がれました(Ⅰサムエル16:13)。キリストはこのユダヤのヨルダン川で油注ぎを受け、王としての資格を得た、と言ってよいでしょう。
2.聖霊が降って
『3:16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。』
この聖霊が注がれた記事は「神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って」とあります。聖霊が降ったことを見えるかたちで示されたのです。そして、この王なるメシヤとしての即位を父なる神様が承認している証拠が17節です。
『3:17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』
16,17節の場面で、御子、御霊、御父の三位一体の関係が見られます。また、ここでイエス様が受けた聖霊は、王としてのしるしであるだけではなく、実際に力を得たことも覚えてください。
ヨハネ『3:34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。』
「わたしの愛する子」とはキリストにかけられたことばですが、それは信者である私たちへのことばでもあります。キリストは長子として、私たちの先がけとして、続く神の子どもたちのためにバプテスマを受けました。そして、
ヨハネ『1:12 ~自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。』のです。