Ⅰコリント1:1-19 

 心を一つにして

2022年 123日 主日礼拝

心を一つにして

コリントの信徒への手紙一 1:1-19 

 

「心を一つにして」


おはようございます。今日はコリントの信徒への手紙一から、み言葉を取り次ぎます。皆さんは、コリントの町をご存じでしょうか?アテネの南西にある港町で、古くから栄えていました。半島の西側がイオニア海と面し、東側がエーゲ海に面していましたので、重要な物流拠点だったわけです。パウロは、コリントへは、第2回伝道旅行の際に訪れています。約1年半滞在していました。その間、パウロは福音宣教に励み教会の土台を築き上げたのです。ですから、コリントの教会はパウロが建てた教会と言えます。


パウロは、コリント伝道を終えたとき今のトルコにあるエフェソの町に立ち寄りました。そしてまた、第3回伝道旅行に出かけたパウロは、エフェソに戻りそこで約3年間滞在します。おそらくそのころ、コリントの信徒への手紙は書かれたと言われています。パウロは、コリントを離れてからも手紙で、コリントの教会の様子を知っていただけでなく、人を遣わしたり、手紙を送ったりして、指導を続けていたのです。現存しているコリントの信徒への手紙の写本は、ⅠとⅡの2つですが、すくなくとも4つの手紙があったといわれています。


パウロがエフェソに滞在しているとき、コリントの教会から何人かが来て、仲間割れや争いの問題が起こっていることをパウロに伝えました。そこでパウロは、コリントの信徒のために、この手紙を書いたのです。ですから、コリントの信徒への手紙は、具体的な問題が主なテーマになっています。パウロは、コリントにあった問題を通して、そして福音に照らして、本当に正しいことは何なのかを、神様に祈り求めたのでした。


パウロは、自分のことを「神のみこころによって召されて使徒とされた」と手紙の冒頭で言っています。自分で志願して使徒になったのではなく、神様のみこころによって使徒になったのです。そして、パウロと一緒に差出人となったのは、ソステネという人です。パウロはソステネという人を自分の兄弟であると言っています。このソステネという名前は、使徒言行録18章に出てきます。会堂長のソステネは、パウロをローマのアカイヤ州総督に訴えています。つまりソステネはパウロの敵だったのです。もし、このソステネと兄弟ソステネが同一人物であるならば、かつて敵であった者を、神様は、信仰の友にしたことがわかります。神様の福音は、人をこのように変えてしまうのです。


パウロは、意図してでしょう、手紙の宛先を「コリントの教会」と呼ばずに、「神の教会」と呼んでいます。また、教会の人々に対しては、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」と呼んでいます。教会は、神様によって建てられ、そして、教会はイエスキリストによって召された者が集まるのです。コリントの教会も、本来そうあるはずなのです。しかし、パウロがこのように書いているのは、コリントの教会に「分裂の危機」があったからです。いくつかのグループができてしまって、お互いに主張しあうような、教会となっていたからです。そこでパウロは、教会は神様が作ったものであるし、その指導者も神様から召され、そして立たされていることを強調します。決して、特定の人の知恵や行動によって教会は出来上がったのではないのです。パウロは、本題に入る前に、教会がこのコリントに出来た理由が、神様のご意思によるものであることを「宣言」したのです。


パウロは、神様の恵みがコリントの信徒にもに与えられていることを、確信しており、感謝していました。神様の恵みは、キリスト・イエスによって与えられています。私たちは神様のさばきを受けて当然なのに、赦され、そればかりか神様の祝福を受けました。本来、受けられるはずのない「赦しと祝福」に与ることは神様の恵みであります。その恵みは、キリスト・イエスが私たちの罪のために死んでくださったからこそ、頂けるのです。ですから、神様の恵みは、キリストによって与えられているのです。

今、私たちは主イエス・キリストとの交わりに入れられています。教会での交わりはイエス様との交わりなのです。しかし、自分も、交わる相手も、人である以上、お互いに不完全な者です。それにまた、交わる相手に自分のすべてをさらけ出すことは、ためらわれて、分かち合うことは難しいです。また、打ち明けたら、裁かれるのではと思ってしまうと、気が進まないものです。そういう意味で人間同士の深い交わりは、限界があります。しかし、神様は主イエス・キリストを通して、私たちと交わってくださっています。そして、イエス様を間に挟んだ、人と人との深い交わりを提供してくださいました。すべてが主イエス・キリストにあって成り立っているのです。


ここから本題です。パウロは、コリントにあった問題について語り始めます。『1:10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。』

パウロは、主イエス・キリストの御名によって、コリントの教会が一致することを願っています。私たちすべてが、イエス・キリストを中心にして集まっているなら、私たちも一つとされます。これがキリストによる一致です。キリストによる一致とは、同じように考え、同じように行動しなければならないという意味ではありません。イエス・キリストと交わるところにおいて一つとなることです。キリストによる一致は、人間から出た知恵では得られません。イエス様の業です。ですから、もちろん、イエス・キリストを信じているのでなければ、キリストによる一致はできません。イエス様が神様の独り子キリストであること。イエス様が、私たちの罪のために死に、三日目によみがえられたこと。これらのことを信じているのであれば、私たちの間に聖霊の働きによる一致が与えられるのです。


しかし、コリントにある教会はそうではありませんでした。パウロは、コリントの教会の中で、「私はパウロにつく。」「私はアポロに。」「私はケパに。」「私はキリストにつく。」と言っていることを知っていました。ある人は、コリントの教会を立ち上げたパウロを見ていますし、ある人は、エフェソから派遣されたアポロを見ています。そして、ある人はケパ(使徒ペトロの呼び名)を見ているわけです。本来は「私はキリストに」が正しいのでしょうが、それぞれのグループが、人を見て、そして人の知恵に頼んでいこうとしている様子がよくわかると思われます。

コリントの信徒は、イエス・キリストを中心にではなくて、特定の教会の指導者たちを中心に割れようとしていました。どの人もキリストに結びつけられた者であるのに、権威のありそうな人に従おうと考えたのです。そのために、ある者はパウロにつき、ある者はアポロに、ある者はペトロに、そしてある者はキリストにつくと言いました。決して、グループができることが悪いことではありません。ただ、この「私はパウロにつく」等の言い方からすると、そこに分断を感じます。いくつかのグループに分かれても、グループ間でキリストにある交わりがあるのならば、教会は、分断されないでしょう。パウロは、教会が割れたことを「キリストが分割されたのですか」と問いただします。イエス様によって教会ができているのにもかかわらず、パウロの教会、アポロの教会、ペトロの教会を作ろうとしているように見えるからです。しかし、十字架につけられたのは、イエスさまであり、聖霊のバプテスマをもたらしたのもイエス様です。また、パウロは イエス様の名によってバプテスマを授けたのです。すべての教会の働きは、イエス様が中心にいるのです。

パウロがバプテスマを授けたのはクリスポとガイオ、そしてステファナの家族。この人たちは、コリントで初めてイエス様を信じた人たちであります。その後にイエス様を信じた人がいれば、パウロはテモテやシラス等にバプテスマを授けることを任せました。これは、パウロがバプテスマを軽く見ているからではありません。パウロがバプテスマを授け続けたならば、「私はパウロからバプテスマを受けた」という人たちが現われて、パウログループを作るであろうと考えたからです。結果として、自らはバプテスマを授けないという判断が与えられたことにパウロは感謝しています。パウロの使命は、バプテスマを授けることではなく、福音を語ることでした。その福音とはイエス様ご自身であり、また十字架につけられたキリストでありました。


そこでパウロは、コリントの仲間割れの原因となった、「この世の知恵」について語り始めます。コリントの信徒がキリストから目を離し、人間的な知恵や知識により頼んだので、教会の中に分断が起こってしまったのです。ですから、この世の知恵がいかにむなしいものか、いかに愚かなものであるかを示さなければなりませんでした。そこで次のように言います。

『1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」』(イザヤ29:14 それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」) 

十字架の言葉は、イエス様ご自身についての言葉であり、またキリストが十字架につけられて、よみがえったことについての言葉です。その言葉は、この世の知恵で読みとると愚かに聞こえます。しかし、救いをもたらす神様の力であると、パウロは信じます。なぜなら、この世の知恵によっては、誰一人も罪から救い出すことはできないからです。けれども、十字架の言葉を聞いて信じた人は、確かに罪から救われて、その人生が変わります。この世の知恵の言葉は、聞きざわりがよいですが、そこには真に人を救う力はないのです。しかし、愚かなように聞こえる福音には、力があるのです。

それは、事実です。ですから、この世の人が自分の知恵によって神様を知ることがないのです。そのために、神様は宣教の言葉の愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。


パウロは、宣教の言葉が愚かに聞こえることを認めています。しかし、そのような愚かであるはずの福音の言葉によって、大ぜいの人々が救いにあずかっています。神様は、この世の知恵がいかにむなしいかを知らせようとして、あえて、キリストの十字架による救いをお定めになりました。子どもでも、この真理を悟ることができます。けれども、どんなに知恵があっても、その知恵によって神の真理に至ることができないのです。私たちは、パウロの教えるように、イエス様の前に心を一つにして愚かな言葉で福音を宣べ伝えましょう。そこにイエス様がおられて、イエス様を通して福音が伝わります。賢い知恵や美しい言葉はそこにいはいりません。しっかりイエス様の福音の命令に向き合って、心を一つにして従ってまいりましょう。