コリントの信徒への手紙二12:1-12

パウロの誇り


1.パウロの誇り

 Ⅱコリ10-13章は、この手紙のどの部分にも続がりません。この部分を学者は、「中間書簡」とか「涙の手紙」といっております。そして、10章から13章の書き方は非情に激しい口調となっています。

12章は、『わたしは誇らずにはいられません』という強い言葉の出だしです。謙遜であったパウロらしくない、言葉であるように思われます。しかし、ここでは、人間パウロではなく、使徒とされ使徒として仕えているパウロの使命についてであるとすれば、理解できないほどではありません。

 パウロは、『誇っても無益ですが』と断りますが、その誇りは、『主が見せてくださった事と啓示してくださった事』と言っています。そのパウロの誇りは、神様の啓示に基づくこと、原因が神様にあることをパウロは明言しました。だから、誇っているのは人間パウロの事ではないことがわかります。


2.霊の人、肉の人

 『キリストに結ばれていた一人の人』と言うのは誰でしょう? 三人称で客観的に述べていますが、実は天にあげられた体験をしたのはパウロ自身です。しかし、パウロはこれを他人の出来事のように語るのは、使徒と言う公的な立場での体験ではなく、一信徒、一改宗者としての体験だからです。パウロの召命は、

「キリストの十字架の言葉を宣べ伝える」だからであります。

 パウロは、自分の中に二人の人間がいることを説明します。一人はキリストの中にある霊の人です。もう一人は生まれながらのこの世的な肉の人です。パウロは啓示に与った者として霊の人の方を誇ろうとしますが、その反面、この世的な肉の人として、その弱さを誇ろうとします。

 霊の人として持つ 天に引き上げられた体験では、パウロはわれを忘れたようです。この第三の天にまで引き上げられる、楽園にまで引き上げられる体験が体のままか、体を離れてか、という意味は、終末的な意味では、肉体が復活するのか、霊が復活するのかの違いをもたらします。

 なお、第一の天は「空」 第二の天は「宇宙」 第三の天は「天の国」と言うことだそうです。


3.とげ(棘)のある者として

『12:6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、12:7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。』 

 パウロに啓示されたことがあまりに素晴らしいことでした。それを語るパウロは、事実を宣べているだけです。特に、虚飾などを入れずにそのまま語っているわけですから、過大評価にはなりませんし、思い上がっているわけでもありません。しかし、それを聞いた人は、パウロを過大評価します。だから、その過大評価を受けることによってパウロは思い上がってしまうかもしれません。そこで、パウロは

『そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました』と、語ります。

 パウロの身に与えられた刺が何であったか、良くわかりません。通説として病気だと言われています。しかし、どんな病気であったかは不明です。ガラテヤ書4章13-14節に述べられている病気の可能性はあります。パウロは、その病の苦しみを神様に向けることはありませんでした。だから、神様を呪うのではなく、その原因を「サタンから送られた使い」と説明しています。これは当時のユダヤ人の一般的な解釈です。病気の原因は、サタンの働きと考えられていたのです。

『12:8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』

 パウロもその苦しみに耐えかねて神様に祈っていました。三度も徹夜して祈ったのでしょう。しかしその答えはこのようなものでした。

『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』

この言葉を聞いたパウロは、その弱さを受け入れました。強いパウロにではなく、弱いパウロにこそ、キリストの力がパウロ自身を強めてくださるのだと・・・そしてその自分の弱さを誇りとして、大いに喜ぶことを学んだのです。

 パウロは単純に自分の「弱さ」自体を讃美しているのではなく、誇りとすべきことを単純に語っているのでもないのです。主の言葉を伝える使徒パウロが、伝える相手と同じように病気という刺を体に持つこと、そして、主の十字架の苦しみがそれに比べられないはるかに重いものであることを憶えるのです。パウロ自身の苦しみも 主に担われている。そのことを、同じように病気に苦しむ人々に語る事で。慰めと、励ましが出来るのであります。パウロは、自らの痛みを通してキリストの十字架を誰よりも深く知ったのです。ですからパウロは、弱くとげがあるからこそキリストの福音を取り次ぐ使徒でありました。