コリントの信徒への手紙一13:1-13

愛とは

聖書研究

【いつまでも残るもの】

信仰              希望    愛      

πίστις             ἐλπίς      ἀγάπη  

ピスティス          エルピス  アガペー

【廃れるもの】

預言          異言     知識

προφητεῖαι      γλῶσσαι    γνῶσις

プロフェーティアイ グロ-サィ  グノーシス

1.最高の道である愛

 この箇所では、愛が他のあらゆる「徳」よりも上位に置かれています。コリントの教会の抱えていた問題に合わせて、パウロは愛を特に聖霊からいただいた賜物と比較し、「愛がなければ、わたしに何の益もない」と結論付けてています。

 「異言で話すこと」は、コリントの教会で高く評価されていました。人々の異言と天使たちの異言との共通性は、異言で話すこと自体には何の価値もないことです。人の異言は、その技能をどれほど磨き上げたとしても、「騒がしいどら、やかましいシンバル」に過ぎません。預言についても同じことが言えます。たとえ預言が人間にすべての秘密を明かすとしても、考えられうる知識につうじていたとしても、また、たとえ人がどれほど偉大な信仰の持ち主であったとしても、愛がなければ、すべてはまったく無に等しいものです。

 誰かが自分の財産を丸ごと貧しい人たちの食べ物に換えて分配したとしても、それ自体には食べものを与えた事実以外には何の意味もありません。何のために、それが起こされたか?もし、それが「誇るため」であったならば、なんと空しいことでしょう。とにかく、愛がなければ、これらすべての事実や成果は、取るに足りない無価値なものとなってしまうのです。あたえた事実以外には、内在的な価値などはないのです。

 賜物を用いた行動の背景に、キリストの愛、私たちのために十字架に自らかかることを選んだときと同じ「愛」がある場合に、賜物はいかされるのです。そうでなければ、やかましくてうっとおしい「おごり」でしかないのです。


2.愛とは?

 ここでパウロは愛を賜物と比較するのをやめて、本当の愛とはどのようなものかを、語り始めます。この箇所は、「御言葉の正しい解釈を提供する」ために、パウロ自身が明瞭・簡潔に示したものです。

 パウロが言う「愛」とは、本来、理論的なものでも神学的なものでもありません。「キリストの愛を隣人のもとにお届けする」のが、真心のこもった愛です。そこには邪念はありません。そして、「愛」はたいへんに謙遜であります。そして、このキリストの愛こそがコリントの教会に欠けていたものです。キリストの愛が欠けていたため、教会は、その外見のパワフルさとは裏腹に、神様からのあらゆる賜物が「自慢」、「妬み」、「不義」などに支配され、賜物の意味を失っていました。つまり、自身を犠牲として献げたキリストの愛ではなく、相手を犠牲に、そして自分に利得をもたらす行いのために賜物を使っていた。それは、キリストの愛ではないのです。


3.愛は滅びない

 パウロは再び愛と賜物とを比較していきます。愛は決して滅びない、という点で愛は賜物とは比べられないほどの価値があります。愛とは異なり、賜物はすべて、結局この世では不完全なものです。

 栄光の中に入った人は皆、神様の奥義が示される時が来ます。その時には、異言で話す賜物は意味がなくなってしまいます。はっきりと、知ることが出来るわけですから、わかりにくい暗示のようなしるしは不要になってしまうのです。もはや誰も、異言の賜物ではなくて、直接神様の奥義を知ろうとするからです。また、あらゆる霊的な知識も、それらがどれほど深遠なものであっても、やはり奥義が示された時、消えざるを得ないという点では同じです。いずれ預言はすたれ、異言はやみ、知識は意味を失います。しかしその時、愛は決して消え去ることのない完全なものとなります。もちろん、信仰も希望も最後まで無くなりません。ただ、3つを比べると愛が一番なのです。

 このことは、人間が大人になっていく過程と比較することができます。子どもは自分の限られた理解力に応じて考え、自分で言葉にできることがらを話します。いわゆる、幼い時ほど異言を語るのであります。人が大人に成長すると、その話し方はもはや子供の意味不明な音ではなくなります。また、成長することで、いろいろな知識を得ます。そして、神様の言葉を学び、よりよく理解するようになります。しかし、神様の言葉や知識だけで人を動かすことも、人を愛することもできません。そこには、信仰と愛が必要なのです。そして、その信仰と愛によって、新しい世界が開けることに希望を持つのです。

 予言(預言ではありません)に関してもまったく同じことが起こります。それらは、来るべき世界で実現することを予告するものであるのはたしかですが、神様の真理から遠い儚い賜物であるのです。それとは異なり、愛は神様の完全で大いなる賜物なのです。愛は、霊の賜物(カリスマ)を求める人にとって、最良の賜物なのです。その賜物を通じて、クリスチャンは皆、自分の生活の「エネルギー源」として、キリストの愛を求めていくのです。