ローマ3:1-20

正しい人は一人もいない

引用聖句(3:10-18の引用元です)

a)詩編『14:1 【指揮者によって。ダビデの詩。】神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。14:2 主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。14:3 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。』

b)詩編53:1-3 c)詩編5:9 d)詩編140:3 e)詩編10:7 f)イザヤ59:7,8 g)箴言1:16

h)詩編36:1 ※現代の讃美歌のように、いくつもの聖書の箇所を引用して編集した詩歌と思われます。

 

1.ユダヤ人の優れた点 

 前回、ユダヤ人の指導的立場の人が、「律法を守りなさいと教えながら、自分は律法を守らない」とパウロが指摘していることを学びました。また、「割礼」があるかではなくて、「律法の要求を守る」ことを実践しているか?が、心の中で神様を信じている「しるし」であるとパウロは説明しています。そうなってくると、外見的な割礼は意味がありませんので、それでは、ユダヤ人のどこが優れているかということを考えなければなりません。特にユダヤ人の指導的な人々は、どこが優れているのでしょうか?パウロは、言います。それは、人々にみ言葉をゆだねられていることです。

(注意すべきは、不誠実な指導的立場の人に、み言葉がゆだねられていると言うことです)

 まず、不誠実な指導者がいたとしても、「神様が不誠実である」ということにはなり得ません。たとえ、人間すべてが「偽り者」であったとしても、「神様は真実な方」です。


詩編『51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。』と書いてある通りです。

つまり、神様は正しくて、人は正しくないのです。

 

 パウロは、問います。「義しくない私たちの行いが、神様の義しさを明らかにする」のでしょうか?

もし、そうであるのならば、次のような矛盾が生じます。

①「私たちの正しくない行いに、神様は怒りを発しない」のであれば、私たちは悪をやめようとしないでしょう。それなのに、神様は、裁きができなくなります。それでは、義しさが明らかではありません。

②「わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となる」のであれば、神様の栄光を表すためにより一層偽りを行ったにもかかわらず、罪人として裁かれなければなりません。また、「神様の栄光のために悪をしよう」というあべこべな考えが可能になります。ところが、そんな考えの人に限って、パウロに対して「神様の栄光のために悪をしよう」としていると、中傷するわけです。こういう人たちには、神様の裁きがあるでしょう。

 

2.正しい人は一人もいない

 パウロは、私たちには優れた点はないと言います。それは、ユダヤ人とギリシア人の区別なく、すべての人が罪の下にあるので、優れているわけではないのです。主に、詩編から「正しい者は一人もいない」との記事をかき集めたような歌ですが、残念ながら、アダム以来、我々人間が背負っている罪の下から逃れえないのです。そこに、小さな外見上の優劣を持ち出しても、それは、優れているのでもなければ、劣っているものでもありません。比較にならないほど、けた違いに罪の方が重いからです。

 律法は、ユダヤ人に与えられましたが、こうして異邦人への伝道が始まっていますから、伝道先の民族(ここではギリシア人)も律法の下にいます。この律法は、罪に定めるものであって、神様が全世界を裁くための基準であります。そして、裁かれる私たちには「罪の自覚」を促すものです。それは、あらかじめ禁止されていたことをした、またはやるべきことをしなかった等の義しくない行いを責めるものであります。律法は、そういう意味で信仰生活の規範であります。しかし、そこには大きな欠点があるのです。人間は生まれたまま、そして律法によって成長しても義とはならないからです。