ヨハネ21:1-14

イエス様の食事に招かれて

 ティベリアス湖とは、ガリラヤ湖のことです。第二代ローマ皇帝は、ティベリウスと言いましたが、幼いころは、ヘロデ大王の子供たちとローマで育ちました。そのような関係性から、ローマ治世下のガリラヤ領主ヘロデアンティパスは、ガリラヤ湖をティベリアス湖と呼ばせました。ですから、ペトロが漁師をしていたその場所がティベリアス湖なわけです

そのペトロの本拠地に弟子たちが集まって、復活されたイエス様ご馳走をしようとしたのでしょう。イエス様と弟子たち7人の食事のためにペトロは、舟を出します。そもそも、ガリラヤ湖は良い漁場になっていて、今でもペーターズフィッシュ(ペトロの魚)と呼ばれている、ティラピアという魚がたくさん採れます。

ところが、プロの漁師であるペトロが、一晩中網を手繰ったのですが、一匹も魚が取れませんでした。

早朝になって、イエス様が岸に立っていました。しかし、弟子たちは、それがイエス様だとは気が付きません。イエス様が、「食べるものがあるか?」と聞くと、弟子たちは「ありません」とありのままを答えます。すると、イエス様は、素人であるのに漁の指示をします。そして一晩中何も取れなかった場所、突然網を打った場所つまり魚が捕れなかった場所を指して、「網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言います。

.網を打つ

 結果的に、網を打って、巻き上げきれないくらいのたくさんの魚が取たのですが、弟子たちは、素直な気持ちで網を打ったのでしょうか? 特にペトロです。ペトロは、プロの漁師です。どこの誰ともわからない人(早朝の為暗くてイエス様と気づかなかった)の意見を聞いて、どう思ったのでしょう?実際にペトロは、どうにかして魚を捕りたかったのかもしれませんし、もともと人の忠告をよく聞く人だったのかもしれません。そして何よりも、考えてから行動するタイプではなく、直感的に行動するタイプなのでしょう。すくなくとも、岸に立っている人のアドバイスを信じて、網を打ったのではなく、じゃあ、やってみようか?と言うような素直な反応だったと思われます。

.イエス様に気づく

 イエスの愛しておられた弟子が、イエス様に気づきました。イエスの愛していた弟子とは、ヨハネによる福音書特有の表現で、ヨハネを指すというのが定説です。真っ先にヨハネが気づき、「主だ」と叫びました。すると、ペトロは急いで海に飛び込み、他の弟子たちも網を引きながらイエス様のおられる海岸に向かいます。ヨハネによる福音書では、先に、イエス様が弟子たちの真ん中に現れた時、すぐにはイエス様とは気づきませんでしたが、今度は遠目からでもイエス様が分かったのでしょうか? いえいえ、「しるし」を見たのです。一晩中漁をしても捕れなかった魚が、大量に網にかかったのを見て、イエス様の「しるし」だとわかったのです。弟子たちは、偶然、網を打ったところにたくさんの魚が通りかかったとは思わなかったのです。このことを引き起こしたのは、イエス様に違いない。どの弟子も気が付きました。そして、喜んで岸辺に戻っていったのです。

.食事を共にする

 陸に上がると、炭火の準備がされていて、イエス様が「今とってきた魚を何匹か持ってきなさい」と言われます。食べる分と言う意味でしょう。153匹ですから、150~300kgにもなります。それでも、網が破れなかったというのも、奇跡的な出来事です。

イエス様と弟子たちは、一緒に食事をしました。あの疑い深いトマスを含め誰もが、イエス様であることに気が付いていましたし、確信していました。ですから、イエス様であることの「しるし」を見せてくださいとも、「あなたはどなたですか?」とも聞きませんでした。

ところで、弟子たちの前に現れたイエス様は、姿かたちが良く見えなかったのでしょうか?そういう、意味で目で見えるイエス様ではなく、弟子たちが実感したイエス様だったのかもしれません。そこに現れたイエス様は、「しるし」と、それを受け止めた弟子たちの信仰によって、目のあたりにしているように実感したと言えるのではないでしょうか?

そのとき、イエス様はパンと魚をとり分けて弟子たちに与えられました。いつものイエス様の所作。そして弟子たちもいつものように、パンと魚を受け取って食べました。そこには、イエス様がいる。だれも疑っていないし、自然に受け入れている。もう、弟子たちの中では、イエス様は復活していることが普通のことになっていました。弟子たちが、イエス様を受け入れて姿だと感じられます。