マタイ19:13-30

天の国に入るには

2023年 9 24日 主日礼拝  

天の国に入るには

聖書 マタイ19:13-39

今日の聖書の登場人物は、子供たちと、おそらく最高法院(サンヘドリン)の議員(ルカ18:18)である金持ちの青年です。子供たちと言っても、ルカの並行記事には乳飲み子(ルカ18:15)とありますように、イエス様のお話を理解できるような年ではありません。一方で、この青年は、幼い時から律法を教えられ、そして律法を守ってきています。また、最高法院の議員であれば、ユダの国のエリートでもあります。この青年は天の国に近い存在だから、天の国に招かれるはず と自負していたかもしれません。そして、子供たちは、誰から見てもまだ幼すぎるので、イエス様のお話がわかるくらいに成長してから、天の国に招かれるのだと言うことでしょう。しかし、イエス様が言われるには、

『先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」』

つまり、この青年は今は天の国に入る資格がなくて、むしろ後回しにされる。そして、子供たちこそが、先に天の国に招かれる。このことを、イエス様は教えました。それは、皮肉なことです。律法を厳密に守る行ないで、信仰を表しているこの青年が、今は天の国に入れません。なのに、信仰を言葉で表すこともできない子供たちの方が天の国に招かれています。天の国は、エリートのものではないのです。イエス様は、「天の国は、小さいもののために開かれている。」ことを教えました。そして、「金持ちが天の国に入るのは困難。」であることを付け加えます。

その理由は、この記事の前に書かれています。

マタイ『6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」』

 金持ちが、たとえ律法を守っていたとしても、富に仕えているとしたならば、結果として神様の方は軽んじています。だから金持ちでいられるわけです。一方で子供たちは、親たちに連れられて来ました。親は、自分の子供をイエス様に祝福して欲しかったからです。子供は、その親を信頼してついてきているのです。この親たちの信仰を受け止めたイエス様は、ついてきた子供たちを、追い返すはずがありません。このように、親を通してイエス様を信じるこの子供たちは天の国に招かれるのです。なぜならば、救いは、イエス様を信じる信仰によってのみ、もたらされるからです。

『19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。』

 「手を置いて祈る」とは、祝福の事です。「神様の恵みが与えられるように」と、子供たちの頭の上にイエス様が手を置いて祈る。これをしてもらいたくて、親たちは子供たちを連れてきました。親たちは、イエス様の事を信じているからです。そして、その信仰は子供たちにしっかり伝わっています。言葉で、充分にコミュニケーションをとることが出来なくても、子供たちはすでにイエス様を信じているのです。だれもこの子供たちが天の国に入ることを遮ることは出来ません。ところが、イエス様の弟子たちは、この親たちを叱ったのですね。どうしてでしょうか? たぶん弟子たちは、「イエス様の言葉を理解できなければ、ここに来ても何の意味もない」と考えたのでしょう。だけど、そのようなことはありません。たしかに、言葉は信仰を持つために重要な手段ではあります。しかし、言葉が十分に発達していないから、天の国に招かれないということでは ないのです。神様は、全ての人を天の国に招こうとしています。だから、イエス様のお話を理解できていても、理解できなくても、その招きが強められたり、弱められたりはしないのです。それなのに、弟子たちは子供たちを追い返そうとします。そのとき、イエス様はこのように言って子供たちを招きました。

『「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」』

 弟子たちが、追い返そうとしていたことに、イエス様はかなり怒ったのだと思われます。弟子たちは、「子供たちは伝道の対象ではない」と思ったのでしょう。ところが、イエス様は子供たちも天の国に招いていたのです。決して、「幼いから」と言う理由でその信仰を否定してはいけません。むしろ、幼いからこそ、霊的な信仰を頂くことができるのです。イエス様の弟子たちは、そういう意味で、外見で判断をして、心の中にある信仰を見逃していたと言えます。また、弟子たちの行動には大きな問題がありました。神様を求めてやってきている人々、そして神様が招いている人々を選別して、区別しようとしたのです。このことは、現代の教会でも注意しなければなりません。神様を求めている人、そして神様が招いている人を妨げてはいけないのです。イエス様は、神様の祝福を求めてきた子供たちの頭の上に手を置いて、「神様の恵みが与えられるように」と祈りました。こうして、イエス様は求めてくる者の全てを受け入れるのです。


 さて、あの青年の方はどうでしょうか?

「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」

と、イエス様に近づいてきて尋ねました。「何か善いことをしているわけではない子供たちが、天の国に入れる。」とのイエス様の言葉に引っかかったのでしょうか?この青年は、行いによって天の国に入れるのではなかったのかなー と イエス様に聞いてみたわけです。すると、イエス様が答えます。

『「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」』

この青年の言う、善いこととは誰にとっての善いことなのでしょう?善いことに相当するギリシャ語はアガトス(ἀγαθός)と言う言葉ですが、これは、「本質的に良い。」とか、「信仰を通して、神様から始まる生活の中で、神様によって力を与えられたもの」を指します。つまり、善い者とは唯一神様だけなのです。また、善いこととは神様によって与えられたことです。それだから、神様から与えられた掟を守れば、永遠の命が得られると、イエス様は教えたのです。それに対して、この青年は、「どの掟を守ればよいのか?」と尋ねます。すると、イエス様はこのように答えました。

『「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、19:19 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」』

これは、モーセの十戒の後半部分とレビ記からの引用です。レビ記にはこのように書かれています。

レビ『19:18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。』

すると青年は、不満をあらわにします。

『そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。』

 これはかなり、傲慢な言葉だと思います。もし本当に、「自分に欠けているところがない」と思うならば、この青年のやっている善いことは、ただの妄想だと想像されます。一般的に、欠点がないと思ったその時から、どんな事であっても完全になり得ません。改善しようとの気持ちがなくなるからです。だからむしろ、欠点が増えていくでしょう。そして、欠点だらけであるのにもかかわらず、善いことをしたと自画自賛をしているわけです。だからこの青年は、本当に善いことになったのだろうか?と神様に尋ねることもありません。そして、自分のやったことは「善いこと」だと決めつけているのです。だから、表面的な善いことしか出来ないのです。そう言うわけで、本質的に善いことをするためには、神様に聞くしかありません。イエス様は、この青年に真正面から答えます。

『イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」』

 神様と富。先ほど申し上げましたように、神様に仕えているならば、富に仕えることは出来ません。逆に、富に仕えているならば、神様に仕えることは出来ないのです。この青年は、金持ちでした。形の上では掟を守ってきていましたが、仕えていたのは富です。ですから、神様の下さる善いことは本質的にはできていないのです。その青年に、「今から神様に仕えなさい。そして、私に従いなさい」とイエス様は言いました。すると、この青年は、悲しみました。今からでも、神様に仕えようとは、決心がつかなかったのです。「隣人愛」を実践しているイエス様です。持っている物すべてを、隣人のために使い果たすことに抵抗がある人は、イエス様と一緒の行動は無理だと思われます。このままでは、「天の国に入れない」とこの青年は、気づいたことでしょう。しかし、それでもお金を手放す気にはなれません。この青年はその場を立ち去りました。イエス様はそれを見て言います。

『金持ちが天の国に入るのは難しい。19:24 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』


「金持ちは、天の国に入れない」のでしょうか?幼い時から厳格に律法を守っているこの青年が天の国に入れないのであれば、天の国に入れる人はほとんどいない と考えるのは自然です。そもそも、型通りならともかく、十戒を完全に守れる人などいないのです。だから、イエス様は天の国に入る難しさをこのように言います。

『それは人間にできることではないが、神は何でもできる』 

 天の国に入る人を決めるのは、神様です。そして神様が入れるようにします。あの青年のように、自分が何か善いことをして、自力で天の国に入ろうと考えるのは、見当違いなのです。神様は、天の国を求める者の祈りを聞いて、私たちを導いてくださるのです。また、天の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供も捨てることは誰一人として出来ません。しかし、神様ならできます。神様は、天の国を求める者に対して、人には出来ない事をも成し遂げて下さるのです。そして、私たちは天の国に「何の功績もないまま」招かれるのです。 また、善いことをしていると思っている人ではなく、神様のみ旨に聞いて祈った人が先に天の国に招かれます。また、子供のようにただただ純粋に神様を信じ神様にその身を任せるならば、何の功績が無くとも、天の国に招かれるのです。

 唯一の善い者とは、神様であります。ですから、善いかどうかは、神様が基準となります。私たちは、勝手に善い悪いを決めつけるのではなく、神様に祈って尋ねなければなりません。そうしないならば、神様以外に仕えることとなってしまいます。それは、富でしょうか? 自分自身の名誉欲なのでしょうか?・・・ それらに仕えると言うことは、偶像礼拝と一緒です。私たちは、神様を信じ、そして神様に仕え、そして善いことをしたいと願っています。しかし、残念ながら誰一人として自分の力では善いことは何であるか?が わかりませんし、善いことも出来ません。それでも、神様に祈って求めるならば、神様が導いてくださいます。神様の一方的な慈しみによって、天の国に入ることができるのです。この神様の愛に感謝して、神様を賛美してまいりましょう。