Ⅰヨハネ4:1-6

 真実の霊

 2022年 3月 13日 主日礼拝

真実の霊

聖書 ヨハネの手紙一 4:1-6           

『ヨハネの手紙一』(ヨハネのてがみいち)は、新約聖書の中で、公同書簡とよばれるものの一つです。これを書いたのは福音書記者のヨハネで、使徒であるゼベダイの子ヨハネであると、されています。ヨハネは、イエス様の母マリアを伴ってエフェソで伝道をしました。そのエフェソで、『ヨハネによる福音書』『ヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』を書いたとされています。また、パトモス島に幽閉されていた時に、『ヨハネの黙示録』を書いたともされています。ヨハネは、90才ぐらいまで生きた様ですので、使徒の中で最も長生きなだけではなく、唯一殉教の危機から逃れられた使徒であります。ヨハネは、ペトロと並ぶくらいのキリスト教の中心人物でしたし、ペトロの殉教の後も生き残った使徒ですから、キリスト教を代表して、その当時の「キリスト教とは違う教え」(つまり異端)について、手紙を書き残したようです。それが伺がえるのはこのヨハネの手紙一の次の箇所です。

『2:18 子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。2:19 彼らは私たちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれも私たちの仲間ではないことが明らかになりました。』

 

1世紀にキリスト教の群れが成長してくるとともに、その本来の教えとは異なる教えが様々に出てきては、消えました。また、その異なる教えを頂く人々は、別な群れを作っていったのです。言い方を変えると、正統派ではないキリスト教の異端が出てきたことで、正統な教えとは何か?異端とは何か?が議論され、そのことによってキリスト教の教えがしっかりと固まっていきました。何故かと言いますと、イエス様を神様だと信じる者にとって、イエスが神ではないと主張する人々と一緒に、神様を礼拝することが困難だったからだと思われます。ヨハネの手紙は、その異端を判別する必要に迫られて書かれたものだと言えます。

今日の聖書の最初にこのようなことが書かれています。

『4:1 愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。』

偽の預言者が大勢来ていて、神様以外から出た霊によって語っていた様子がここからわかります。これは、神様ならぬものを礼拝することにつながってしまいますので、信仰にとって大変な危険です。罪を犯すように唆されている様なものです。偽預言者でも、霊の現象を引き起こすことができるから、それが神様から出た霊であるかを確かめるよう、キリスト教の仲間たちに注意を呼び掛けているのです。

 

現代のわれわれクリスチャンの間でも、奇跡や不思議が起こっているという証を聞きます。この人がいやされた、新しい道が思いがけなく供えられた等です。もちろん、イエス様は、ご自分のみ言葉を「しるし」で証される方ですので、イエス様の霊的な現象を疑う必要はありません。でもヨハネは、「霊的現象があるからと言って、それをみな信じてはいけない」と言っています。偽預言者はイエス様の名を使って語ることもできれば、奇跡や不思議をおこすこともできるのです。ですから、イエス様の名が使われているから、また、奇蹟や預言がなされているからという理由だけで、私たちはそれらを信じてはいけないのです。たとえば、現代のキリスト教で異端とされている教えでは、聖書を使っています。しかし、だからと言ってキリスト教だとは言えません。そこには明確な理由があります。それは、聖書以外の聖典も使って教えているからです。ですから、その聖典とされる物が、神様から出たなものなのか吟味することが必要です。一例をあげれば、聖書を独自に解釈して、将来の不安を煽る様な予告をする行為は、神様の霊から出たものではありません。そのように、吟味すれば神様から出たものかどうかが分かると思います。このように、異端を見分ける方法はあるのです。

ヨハネは、異端の見分け方について、このように語りました。

 『4:2 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。4:3 イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。』

 

神様から出た霊なのか、それともそうでないかは、イエス・キリストがどのようなお方なのかの「証」を聞けばわかるということですね。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊」とありますが、これはこの世に人として来られた神の子イエス・キリストを信じるとの証をする言(ことば)です。

ヨハネは福音書の中で、『言は神であった』(ヨハネ1:1)、と書いていますが、1章14節で、『言は肉となって、私たちの間に宿られた。』とも書きました。所謂、受肉です。神様の独り子のイエス様が、肉体を受け取られて私たちの間に住まわれた、という「証」です。これを告白する霊は神様から出たものであります。ですからその「証」がなければ、神様から出た霊ではありません。その神様から出たものではない霊が来ることは、聖書の中でも予告されています。(マタイ24:24、マルコ13:22、ルカ6:26)ここでは、ペトロの予告が良く言い表していますので、紹介しましょう。

Ⅱペトロ『2:1 かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、2:2 しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。』

 

そのキリスト教ではない、偽預言者と呼ばれる異端とは、どういう教えだったのでしょう。1世紀に始まった初代教会のころの異端に、グノーシス主義がありました。「グノーシス」というのは、「知識」という意味です。グノーシス主義にもいろいろあったようですが、グノーシス主義の教えるところによれば、イエス様が肉体を受け取ってこの世に現われたことを否定しています。また、グノーシス主義者にとって、物質の世界は悪とされました。そして、その悪である物質を創った神様は悪の神であり、偽の神なのだから、ほかに「真の神」が居ると考えていました。物質、つまり目に見えるものである肉体は悪であるならば、「真の神」は物質世界から隔離されている霊の存在であると考えるわけです。ですから、グノーシス主義等の異端では、「イエス様の地上での姿は『まぼろし』にしかすぎなく、イエス様は人間の肉体を持っていなかった」と教えていました。

このグノーシス主義に流されないように、キリスト教の信仰を明らかにするために、ヨハネはこの手紙を書きました。ですので、手紙の書き出しから、「イエス様はこの世にいたときに人間の肉体を持っていた」ことを証しています。

ヨハネは、自身の書いたこの手紙の冒頭にこのように書いています。

『1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――』

「私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」と手紙を書き出しことによって、イエス様を手で触ることができる「人間の肉体」を持っていたことを証しているのです。そして、グノーシス主義者は、肉体が悪であると考えるので、極端な禁欲に走るグループもありましたし、「肉体がもともと悪なので、肉体で行なうことは咎めても仕方がない」と教えるグループもありました。また、品行が悪くても肉体に対する悪であり、神様と自分の関係には影響しない等と、悪事を働くことを認めるような極端なグループもありました。

 

このような異端の教えに対し、使徒たちは手紙を各教会に送ることによって、信徒に悪い影響がないように守っていたのです。ですからその一環として、ヨハネは、「イエス様が人となって来られた」ことを否定するならば、「偽りの預言者」として見分けられると教えたのです。

 

ところで、「神様がこの世での肉体を受け取った、受肉してた」ということは、一般的な人間の理解では、受け入れがたいものです。私たちが普通に考えると、神様は神様、人間は人間です。「神様でありそして人間である」ということは、人間の理性の範囲では受け入れられません。そこで、出てくるのがイエス様のことを「人間の預言者」としたり、「神様の作られた天使」として、神様ではないという論法です。人間の理性では、「神様でありそして人間である」ということは、素直に受け入れられないのです。けれども、「神様であるイエス様が受肉した」という不思議な出来事を信じることによって、私たちは「神様を知る」ことを体験できているのです。それは、イエス様が「神様でありそして人間である」からこそ、私たちの立ち位置まで下がって、イエス様はかかわってくださるからです。イエス様は「神様でありそして人間である」からこそ、私たちと神様との仲裁者として、間に立ってとりなしてくださるのです。

 

初代教会のころからキリスト教とは言えない霊がすでに働いていました。また、多くの偽預言者が現われています。悪の力が世を支配しようとしているところに、ヨハネは「あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。」と信徒たちを励ましています。異端を送り出す悪魔がいかに強くとも、私たちの心のうちにおられるイエス様は、悪魔よりもさらに力を持っておられます。このことを知っている私たちは、キリストにあって、すでに勝利していることになります。

 

また、彼ら偽預言者はこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世の者もまた彼らの言うことに耳を傾けます。一方で私たちの群れは神様から出た者です。神様から出た者は、神様を知っているので、神様から出た者の言うことに耳を傾けます。しかし、神様から出ていない者は、神様を知らないので、神様から出た私たちの言うことに耳を貸しません。なぜなら、偽預言者には、この世の言葉しかわからないのです。私たちの「証」は、神様を知っている者にしか分からないことなのです。イエス・キリストを理解することは、この世の言葉で理解するものではなく、イエス様を信じる事によって示されるのです。ですから、理性的には説明するのは難しいです。しかし、同じ信仰に与ることになった者たちの中では、分かり合えるのです。

 

今日は、キリスト教の異端の事をお話ししました。ヨハネのころからずっと、この問題があり続けています。何故かと言うと、私たちは何者であるか?とのアイデンティティーにかかわるからです。そして、気を付けなければならないのは、私たちが異端と呼んでいる人々も真剣に神様を求めているのであり、そして彼らなりの教えでその正当性を主張していることです。彼らから見ると、正統派のキリスト教の方が間違っていると見えるかもしれません。しかし、どちらが正しいかを議論することは、先ほどお話ししたように言葉が通じ合いません。そのように相手を論破しようとするよりも、私たちは自分たちの信仰をはっきり言い表して「証」することが大事です。私たちは、イエス様が神の子であるのに、この世を救うために人の姿でこの地上に降ってこられたことを信じる者です。そして、イエス様の十字架の出来事によって、私たちの罪が贖われたことを信じているのです。そうした出来事を聖書を読み、信仰の先輩の手助けで学んだ私たちは、理性的には説明できませんが、イエス様を信じているのは事実です。「イエス様は、神様であるのに、この世にお降りになったのです。それは、この私を、そしてすべての人々を救うためです。このことに感謝いたしましょう。