Ⅱコリント1:15-22 

 霊を与える神

2021年 3月14日 主日礼拝

『霊を与える神』

聖書 コリントの信徒への手紙二 1:15-22

わたしたちは、祈りのたびにアーメン(ἀμὴν)と唱えますが、今日の聖書ではそのことについて触れられています。聖書の中では、民数記(5:22)や、申命記(27:15)から使われ始めます。意味は、「まことに」とか、「本当に」とか「その通りです」と言う応答を指しますので、祈りに同意を表して、アーメンと唱和するものです。

 もう1つ、然りと否いな と言う言葉が出てきますが、これは原語にも特別な意味があるのではなく、単純にyes(ναὶ)とno(οὐ)つまり、賛成であるとの意味での「はい」と、反対であるとの意味での「いいえ」です。そういうわけで、「然り、然り」と2回重ねたところは、所謂二つ返事で、「はい、はい」と 気持ちよく、すぐに承諾することを指します。

 

コリントの信徒への手紙二は、パウロの3回目の伝道旅行の時に書かれたものです。この手紙の中で、コリントに行こうとしていたパウロの計画が延び延びになってしまったことに触れています。パウロは、2回目の伝道旅行の時に、シルワノとテモテと共にコリントで伝道をしました。シルワノは、使徒言行録の中ではシラスと呼ばれていて、パウロとテモテと一緒にコリントを伝道した指導者です。

3回目の伝道旅行の途中エフェソで、パウロはコリントの信徒への手紙一を書きました。そのなかには、マケドニア(今のギリシャの東北部)を経由してコリントに行くと書いていました。しかし、パウロはなかなかコリントに行けなかったので、その後コリントの教会がどうなったのか気がかりでした。そこで、パウロは、マケドニアに派遣していたテトスに会うためにトロアスの街に行ってみました。トロアスの街は、今のトルコからマケドニアに渡る船が出ている港町です。トロアスで、テトスに会えなかったパウロは、テトスを探すためにトロアスからマケドニアに渡ります。

テトスは、コリント教会の情報を持っていました。コリントの教会で罪を犯していた(おそらく姦淫)人は、霊的に回復したことなどをパウロは聞きます。そして、残念なことにエルサレムの教会のための献金を送っていないことや、偽教師たちがパウロに反対していることを知ります。

 

そういう状況のなか、パウロは、マケドニアでコリントの信徒への手紙二を書きました。そして、今日の箇所では、コリントに行こうとしながら、まだそのことが実現していません。パウロは、このことが「軽はずみな計画」だと言われていたのでしょうか?。パウロは、コリントに行きたいと言う気持ちが本気である事をここで語っています。 

1:17わたしにとって「然り、然り」が同時に「否いな、否いな」となるのでしょうか。』 

是非ともコリントに行きたいという意味で「行きたい、行きます」とパウロが言っていたことです。それが、「行きたくない、そして行けない」となりえるのでしょうか? と言う意味にとれます。やはり、パウロはコリントに行きたいのです。

パウロは、続けます。

『1:18 神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。』

この18節の、もとのギリシャ語は、直訳すると、「神は忠実である。言葉は「然り」「否」」 これだけです。(θεὸς πίστος λόγος ναὶ οὐκ)きわめて断片的なことばなので、補足しないと意味がわかりません。

そこで、意訳してみました。

『神様の真実にかけて言いますが、私の言葉「然り」「否」は、「真実である」』 このように訳すると、話が繋がってきます。

パウロは、本心からコリントに行きたかった。そのことを神様に忠実であるパウロが、神様に誓って言っているのだから、コリントの信徒には信じてもらえると考えたのだと思います。そして、どうやってでもコリントに向かおうとの決意が、そこに見えていると言えます。

19節に『神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。』とあります。

この原文は、直訳すると 『イエス様は、「然り」「否いな」「然り」(ναὶ οὐκ ναὶ)である』とだけしかないので、これも言葉を補足した訳となっています。

特に、文末の然りはたくさんの言葉が付け加えられて訳されています。

先ほどのように意訳すると

「神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」と言われるお方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。」

コリントの信徒から見ると、パウロはコリントに行くと言っていながらまだ来ていませんから、パウロは「然り」と「否」の間で揺れ動いているように見えたのでしょう。しかし、イエス様はすでにパウロをコリントに派遣することを決められていて、そのように進められていたのです。イエス様は、最初から「然り」と実現する予定であり、そして「然り」(しっかり)と成就させるのです。

 

イエス様は、罪の中に死んでいる私たちを救い出すために、人としてこの地に来られ、私たちの罪の身代わりに十字架に架かり死なれました。そしてイエス様は、死の中から復活され、私たちのために執り成してくださいます。「神様の約束はことごとく、この方イエス様において「然り」と 成就しました。

パウロは、イエス様に委ねて伝道をしていました。ですから、そのイエス様に祈って願ったことは、既に実現されようとしているとパウロは信じていました。そのことを、パウロは証ししたかったのだと思います。

 

現代に生きる私たちクリスチャンも、パウロと同じように証しを持っています。そして、証しを人前で語ることが許されています。

神様は約二千年前、御子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、救いの御業を成し遂げられました。神様の救いの約束がイエス様によって成就したのです。神様は、イエス様を信じる私たちに、罪の赦しを与えて下さったのです。イエス様は、私たちすべてを赦して、「然り」とされたのです。イエス様において「否」とされることは無いのです。そして私たちが祈って求めることは、すでにイエス様によってかなえられるのです。イエス様は、最初から「然り」との答えだけを用意されているのです。

 

 私たちは、イエス様を通して祈るとき、イエス様の真実への讃美、そして祈りに応答して、「アーメン」と唱和します。賛美や祈りに合わせ、私たちの罪が赦されたことを確信し、今もイエス様に導かれて生きていくことを「まことに、その通りです。」と告白します。

 

 この様にして、イエス様を通じて私たちを招いてくださったのは神様です。神様は、イエス様を受け入れ信じる私たちにキリストの証印(原文はシール)すなわち、キリスト教徒としてのしるしをお付けになりました。そして、私たちが御国を引き継ぐことができるよう、その保証として霊を送り続けて下さるのです。

 

 エフェソの信徒の手紙1:13-14には、聖霊の働きと、証印についてことのように書かれています。『1:13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。

1:14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。』

 

 聖霊による証印をうけた者は、神の導きからはなれることはなく、その救いを失うこともありません。わたしたちは神に見守られ、罪や死の支配から解放されて、この地上での生涯を歩んでいるのです。この喜びを、一人でも多くの方々とわかちあうことができますように祈っていきたいですね。

 

 神様は、イエス様と聖霊を罪人である私たちに与えてくださいました。神様を忘れてしまう罪を犯してしまう私たちを愛し、何度も私たちを赦し、そして私たちを導き守り続けるためです。キリスト教では、父なる神様と、子なるイエス様、そして聖霊は、一体だと教えます。神様は一人ですが、父なる神であり、神の子であるイエス様であり、そして聖霊と呼ばれる“霊”なのです。新約聖書には、多くの聖霊の記事があります。私たちが使っている新共同訳聖書の後ろの33pに聖霊の説明がありますので、ここを読んでみましょう。

◆聖霊(せいれい) 神の霊の別名。特に新約聖書においてこの表現はひんぱんに用いられ,重要な事柄を表している。イエスは聖霊によって身ごもったマリアからお生まれになり(マタ 1:18,20,ルカ 1:35),ヨルダン川でバプテスマを受けたときに,聖霊がイエスの上にお降りになった(ルカ 3:22)。復活したイエスが約束されたとおり,聖霊は五旬祭の日,イエスの弟子たちの上に降って(使 2:1-4),教会が生まれた。パウロによれば,イエスの死と復活によってわたしたちに与えられる最大の賜物は聖霊であり,「わたしたちに与えられた聖霊によって,神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ロマ 5:5)。また,聖霊は「弁護者」と呼ばれ,いつまでも弟子たちとともにいてイエスを証しし,弟子をすべての真理に導いてくださる(ヨハ 14:26,15:26,16:13)。キリスト教のバプテスマはイエスの命令どおりに,「父と子と聖霊の御名によって」授けられるが(マタ 28:19),ここに初代教会の信条にも表されている,キリスト教の根本的な神理解が示されている。・・・

 これを読むと、私たちが神様と感じているのは、聖霊ということになるのかもしれません。私たちは、直接神様にお会いすることはできませんし、再臨の時まで、イエス様はこの世におられません。しかし、神様は私たちのために聖霊を下さったので、私たちは父なる神様、そして神の子イエス様と共にいることを体感できているのです。そして、父は神様であり、子も神様であり、聖霊も神様なのです。しかし、父は子ではなく、子は聖霊ではなく、聖霊は父ではありません。ここが三位一体の難しいところです。私たちの常識からいうと、父も子も聖霊も一体になった神様であるならば、父は、子であり聖霊だという事になりますから、その真反対のことをうまく説明することができません。私たちの理解できることではないのかもしれないですね。しかし、私たちは、うまくは説明できないのですが、父なる神、子なるキリスト、聖霊が一体となった神様を信じていますし、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊はそれぞれ、神様の違った姿(位格)であることを信じています。私たちは、私たちの理解を超えて、神様を信じ、そして神様に受け入れられているのです。最近読んだ篠原昭と言う方の本。この方は哲学者で、キリスト教の集会を牧会していますが、あめんどう と言う出版社から『「霊性の神学」とは何か』という本を出しています。この中で、神学者カール・ラーナーの言葉を引用しています。カール・ラーナーは、「キリスト教から三位一体の教理を取り除いても、何も失われるものがない」という指摘をしています。この指摘は、キリスト教会は「一体」の神であることに終始して、本来重要な意味を持つ神が「三位」であることは、忘れられているという事です。神様は、父という人格、子という人格、そして聖霊という人格を持っています。3つの人格はお互いの立場で協力をし、そして相手のためにご自身を完全に「与える」のです。神様が聖霊としての人格を持って、私たちに働きかけられる時、聖霊は父と子の協力を得ながら、聖霊として働きます。著者(篠原昭)は、この神様の三位一体のありようが、私たちの教会生活にとって必要な事と言っております。つまり、一つの教会の中には、沢山の個人と個性、そして役割がありますが、私たちは、三位一体の神様のように相手のために「自身を完全に与える」事、そして相手の人格や役割を生かすこと。そして、加えて、相手を受け入れる事。そうすることで、私たちは、三位一体の神様を通して、相手と神様、そして私と神様の結びつきが強まり、それが教会生活の霊性の高まりには必要だと言いたいようです。三位一体の神様だからこそ、神様は私たちの中に霊を与えるために、父と子と聖霊が、それぞれ協力して働きかけられます。その結果、私たちの霊性が高められるのです。

 

 霊は、与えられていますか? もちろん皆さんがイエス様に祈るときには、既に神様は聖霊を降しています。そして、聖霊が働いて三位一体の神様のご計画が成就していくのです。ですから、聖霊を受け入れられるよう、そして聖霊が相手の人に働くよう、お祈りしてまいりましょう。