2025年 6月22日 主日礼拝 ただし、鬼澤寛神学生の宣教のため、没となった原稿
「神様の喜び」
聖書 ルカ15:1-10
今日は、ルカによる福音書から、イエス様の二つのたとえ話のみ言葉を取り次ぎます。
ルカによる福音書の15章には、イエス様の3つのたとえがあります。「見失った羊」「無くした銀貨」そして「放蕩息子」のたとえです。これらは、ファリサイ派の人々や律法学者たちがイエス様に対して抱いていた不満 への答えでした。彼らの不満を知る前に、彼らは、いったいどのような人々かを、まず知っておきましょう。歴史的には、さほど古くはありません。ユダヤが、セレウコス朝シリアに支配されていたころのことです。紀元前168年に、敬虔なユダヤ教徒が中心になって、異教の国の支配に対して反乱を起こしました。そのきっかけは、シリアがエルサレムの神殿を乗取って、ゼウス像を祭ったことです。その戦いを続けることで、ユダの国が建国(紀元前142年)できたわけです。その時の敬虔なユダヤ教徒が、やがてサドカイ派とファリサイ派に分かれます。サドカイ派は祭司と裕福な人が多かったようですが、ファリサイ派はさほど裕福ではない代わりに、大多数を占め、実質的にユダヤはファリサイ派によって運営されていました。そして、その特徴は、「モーセの律法を細部まで厳格に守り、言い伝えも大事にした」ことです。そして、律法学者ですが、後には彼らは「ラビ」(先生)と呼ばれます。彼らは、ほぼ、ファリサイ派で、旧約聖書の研究者であり、聖書を書き写す役割、そして教える役割を担う人たちです。(専任ではなく、仕事を持っていたようです)
福音書の中で、しばしばファリサイ派の人々と律法学者たちが一緒にやって来ます。それは、ファリサイ派の人々による、律法違反探しです。違反を見つけては指導をするわけです。そのときに、反論されても対応できるように、律法学者を連れていたと思われます。ですから、ファリサイ派の人々が律法学者を連れてくるときは、最初から取り締まる気が満々でやってきていると理解してください。
このときの宗教指導者たちのイエス様への不満は、「イエス様が罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしていること」でした。罪人とは何か?彼らの解釈はキリスト教とは違っていたようです。キリスト教の言う罪人とは、「神様に背く人」です。ユダヤ教でもそうです。しかし、彼らの言う罪人とは「律法および、彼らの言い伝えを守らない人」だったのです。そして、さらに問題なのは、「罪人は汚れている。だから、汚れを避ける。」という発想です。
彼らの言う「罪人」とは、「神様の前に悪いことをする人」ではなく、「自分らの決めたルールを守らない人」です。そして、罪人へ下す罰はユダヤ教の会堂からの追放でした。そして、彼らにとって気にくわない「徴税人のようなローマの手先となっている人」も「罪人」だと決めつけました。その決めつけの結果、彼ら宗教指導者たちは、罪人とは決して食事をしませんでした。罪人と付き合うことを避けたのです。・・・そんな掟が、果たして律法にあったか?・・・ はなはだ疑問です。食べるものに制約があるユダヤ人は、異邦人と同じ席で食事をとれません。だから異邦人と食事をしない事については、律法に由来していると言えます。しかし、罪人との食事はどうでしょうか? 律法には、「罪人と食事をしてはならない」と言った掟はないのです。それなのに、彼ら宗教指導者たちは、彼らの言い伝えや、感情を根拠に、罪人と決めつけた人を締め出すわけです。一方、イエス様は、全ての人を受け入れました。
当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にありました。宗教指導者たちは、「ローマから解放されるために、神様に立ち帰らなければならない。」そのためには、「モーセの律法を徹底的に守る」ことだと考えるわけです。それは、「神様が救い主を送ってくれる」と信じたからなのです。彼らは、モーセの律法を守らない人々とのかかわりを絶ちました。付き合いだけではなく、商品の売買でさえも相手にしなかったのです。そのような、当時のユダヤ教の指導者たちに対して、イエス様が罪人と共に食事をするのは驚くべき事でした。
今日の箇所でとりあげたのは、「見失った羊」「無くした銀貨」のたとえです。イエス様は、この2つのたとえから神様について語ります。第一は「羊を探し歩く羊飼い」のような神様。第二は「大切な銀貨を必死に探す女性」のような神様です。この2つの例えから、神様の思いを受け止めてまいりましょう。
『15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。』
羊飼いは、危険な仕事です。そもそも、羊の食べる草を求めて山の中を移動し続けるわけですから、羊が迷子になることもあります。そして、ほかの動物に狙われることもあります。ですから、何かがあると羊飼いは山を走り回って対処します。時として獣と戦ったり、崖から落ちそうにもなったりしながら、羊を守るわけです。イエス様はご自分のことを、一匹の羊を見失った時の羊飼いに、譬えました。もし、この羊飼いが宗教指導者たちならば、このはぐれた一匹を罪深い羊と決めつけたことでしょう。そして、見捨てるのです。その結果、残った99匹の羊を良い羊として飼い続ける。それが正しいと、彼らは考えるでしょう。しかし、本当の羊飼いであるイエス様は違います。見失った羊も、イエス様にとって大事な羊なのです。99匹いるから良いと言うものではありません。体を張って、探しに行きます。そして見つけたら、その羊を引いて帰るのではなくて、担いで帰る。そういう方なのです。見失った羊は、罪人のことを指しています。イエス様は、罪人である私たちを探して、そして手を差し伸べて、その罪をすべてを お引き受けになるのです。だからイエス様は、罪人のところに行って、いっしょに食事をして、そして話をして、罪人たちを罪からの解放に導こうとします。
神様は、一匹の羊も見捨てることはありません。私たちが、どんなに取るに足りない者だとしても、神様の恵みである救いの手から漏れることはないのです。また、神様は「戻ってくる羊を待つ」のではなく、自から出て行って山で迷っている私たちを「見つけるまで」探します。
そして、羊飼いは、見つけた羊をいたわり、汚れていて重いのにも気にせず、羊を担ぎます。同じ様にイエス様は、私たちの汚い罪も、重い罪も受け止め、ご自分の肩に担いで下さっています。そして、無事に生還すると、人々を呼び集めて、その喜びを分かち合うわけです。
『15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」』
イエス様と出会った罪人が「悔い改め」て罪の生活を捨てるならば、そこに新しい命が生まれることになります。それが、ただの一人であっても、神様にとって大きな喜びです。神様は、罪人が滅びることを望みません、罪人が立ち帰ることを何よりも喜ぶのです。 この羊飼いの喜びと、宗教指導者たちの冷たい態度とは対照的でした。私たちは、罪人の悔い改めを神様と共に喜びたいのです。宗教指導者のように、一匹の罪人を切り捨てていたならば、その喜びは得られないのです。
『15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。』
この時代の労働者の一日の賃金が1ドラクマ(ドラクメは複数形)でした。今の日本のお金で8千円を無くしたと 考えてください。それだけの金額ならば当然、ドラクマ銀貨を探すわけです。ただ、住宅事情が今とは違います。まず、昼でも暗いこと。そして、土間に藁を敷いているものですから、銀貨一枚は簡単に見つかるものではありません。徹底的に藁を取り去って、泥を掃いて探さないと見つからないのです。
『15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。』
とっても見つけにくいので、見つかったら喜ぶのはわかります。しかし、近所の人を呼び集めてまで、喜ぶというのは、極端だな・・・と誰でも思うでしょう。だから、この銀貨は特別な物なんだとする説があります。既婚の女性が持っている、「10枚の銀貨を鎖でつなげた髪飾り」だったと・・・確かに私たちでも、結婚指輪を無くしたとしたら、必死で探します。そんな場面を考えましょう。
神様にとって私たちは、結婚指輪のようにかけがえのない宝です。たとえ、その髪飾りの一部である1枚の銀貨が無くなったとしても、神様は「見つけるまで」熱心に探し続けるのです。
『15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」』
ここでも、罪人の悔い改めが喜びに結びついています。一枚の銀貨が、そして一人の罪人が、神様の手元に立ち帰ることは、ひと時の不安や混乱があったとしても、それを忘れるくらいの喜びと平安をもたらすのです。このイエス様の話を聞いていた宗教指導者たちは、返す言葉がありませんでした。イエス様は、罪人を進んで愛し、そのことを喜んでいるのですから。
「神様の喜ぶことは、罪人が悔い改める事」です。決して、「神様は、罪人を切り捨てることを 望んではいないのです」。そこに、私たちの希望があります。罪を犯してしまう私たちですから、罪を犯す度に切り捨てられるのでは、たまりません。そうならないように、イエス様は、山の中をさ迷っている羊のような私たちを、探しに来てくださるのです。そして、私たちを罪に染まったままなのに担いでくださいます。そして、私たちを連れ戻してくださるのです。それから、忘れてはいけない人々がそこにいます。ファリサイ派の人々と律法学者たち。彼らも、イエス様が探している羊の一匹なのです。すべての人に対して、イエス様はその罪を贖うことで、今も私たちを新しい命に導いています。感謝しかありません。神様による平安がいま、イエス様の差し出す手にあることを感じ取りましょう。