ガラテヤ5:2-11,13 

 私キリスト者の自由

2022年 717日 主日礼拝

キリスト者の自由

聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5:2-11,13 

今日は、ガラテヤの信徒への手紙からみ言葉を取り次ぎます。ガラテヤは、今のアジア側のトルコ、その中央部北側にありますが、具体的にどの教会に送った手紙であるかはわかっていません。おそらく第一回伝道旅行のときに伝道をしていたあたりの四つの都市(ピシディアのアンティオキア、イコニオン、リステラ、デルベ:使徒13、14章)または、パウロの同労者が立ち上げたコロサイ周辺の3教会ではないかと思われます。正確にはそれらの教会はガラテヤ州ではありませんが、当時その辺にはガラテヤ州の民族が移住してきていましたので、ガラテヤと呼ばれていたのかもしれません。

ちょうどパウロが第三回伝道旅行でコリントにいたときに、ガラテヤの教会には偽の兄弟たち(ガラテヤ2:4)がいて、教会は混乱していました。そこで、この手紙が書かれたとされています。

 第一回目の伝道旅行の時に、ピシディアのアンティオキア、イコニオン、リステラで、パウロは迫害を受けました。その最初の迫害はピシデア州のアンティオキアで起こったのです。パウロが迫害を受けた理由は、使徒言行録に書かれています。

使徒『13:44 次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。13:45 しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。』

群衆を集めるパウロをねたんだだけではありません。暴力によって迫害をし始めたのです。これも、使徒言行録に書かれています。

使徒『13:50 ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。』

 このように、突然キリスト教を伝道するパウロへの迫害が始まりました。迫害から逃れて、次に訪問した町でも、伝道活動中に大勢の目の前で、迫害されたのです。

 

 ここで書かれているユダヤ人とは、ユダヤ教の信徒をさします。最初は、安息日の会堂でパウロに話をさせるなど、友好的でしたが、大勢の人がパウロの話を聞くために集まり出すと、パウロのことを「ひどくねたんだ」とされています。そして、「口汚くののしって」、「パウロの話すことに反対しました」。そもそもが、この「ねたみ」がパウロへの迫害の始まりでした。しかも、同胞であるユダヤ人たちから迫害されたのです。「ねたみ」が原因ですから、教えに関する対立ではありません。パウロの言う事に、そしてパウロの存在を否定することが、迫害の目的でした。今日の記事は、その最初の迫害から約8年たっています。ねたみで始まったこのパウロへの迫害運動は、多くの賛同者を得るために大義名分を見つけました。それが、割礼の問題です。

 ユダヤ教の割礼は、創世記(律法の1つ)に基づいています。神様が、アブラハムと契約を結んだことを受けて、この宗教的な習慣は守られてきたのです。

創世記『17:10 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。』

 そして、改宗した異邦人も、割礼を受けることによってユダヤ人となりました。ですから、パウロを迫害したユダヤ人には、人種的な異邦人も含まれるわけです。パウロは異邦人に伝道をしていましたから、異邦人がキリスト教の信仰に入るときには、常に問題がおこりました。「改宗する異邦人に、割礼を受けさせるべきか?」についてです。「律法にあるとおりに、割礼を受けさせるべき」だと、教える教師は当然います。一方で、パウロはそうは考えてはいません。しかし、パウロは伝道旅行に出ているので、ガラテヤの信徒を直接指導することができないのです。そのためか、教会の中は2つに割れました。

 パウロは、「律法が第一」といった考えに反対していました。その理由は2つあります。1つは、「律法が救いをもたらす」という教えでは、キリスト教ではなくなってしまい、ユダヤ教に戻ってしまう事です。そして2つめが重要です。イエス様を信じ「イエス様の新しい教え」に従うことで、私たちは救いに与っているのに、その救いへの道筋が律法によって遮られることです。そこが、最も大事です。律法を守ることだけでは、私たちに救いがやってこない。そして、何が救いをもたらすか?と問われたならば、それは「イエス様を神様だと信じること」です。突き詰めるとこれしかないことに確信をもって、パウロは手紙を書いているのです。「イエス様を神様だと信じている」ならば、律法を守る意思を示す「割礼のしるし」は無くても救いがもたらされるのです。決してパウロは、律法を否定したわけではありません。むしろ律法を養育係と呼んで(ガラテア3:24)いますが、律法には限界があること、つまり「律法によって救いはもたらされない」ことを確信していたのです。

 パウロ自身もかつては、律法を守ることを強要して、キリスト教徒を迫害していました。しかし、どんなに熱心に律法を守らせても、誰も義しい者とはされなかったのです。パウロは、「義しい人となるために必要なのは、律法を守ることではなくて、イエス様への信仰である」 と教えました。イエス様への信仰があってこそ、聖霊が働くからです。律法ではなくてイエス様への信仰によって義とされる。つまり、神様から義しい人であると認められる。このように信じるパウロは、「律法を守るもののしるし」である「割礼」について、改宗した異邦人には勧めませんでした。

 

『5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。』

 パウロは、割礼を受けることは、救い主を拒否することだと考えていました。救い主を拒否する。つまり、心の入り口のドアを閉ざしてしまって受け入れないのであれば、救い主はもはや、その人の救い主ではなくなります。割礼は、そもそもが「律法を全て守る」ことを誓った「しるし」であります。そしてその律法は、人の行動を縛るだけで、人を義とするためには働きません。また、残念なことに人は、全ての律法を守ることができないのです。ですから、律法が人を義とすることは、ありません。それだからこそ、私たちの救い主であるイエス様は、その「律法では義とされることのない私たち」を救うためにこの世に降ってきました。そして、イエス様を信じる私たちは、イエス様を信じるその信仰によって義とされ、罪を赦していただきました。ですから、私たちは律法では得られなかった義を得たのです。イエス様への信仰によって義とされたのです。私・・・たちは、そのイエス様による恵みをすでに受け取っているのです。それなのに、律法を守ることによって、義とされようとするならば、イエス様の恵みを拒否することになります。割礼は、「律法を全て守る」ことによって義とされようとしていることの宣言です。もし、イエス様を知って信じた人に割礼を強要するならば、イエス様への信仰によって得た、義とイエス様の赦しの恵みを、否定することになります。そうならないためにも、パウロは「イエス様への信仰がすべて」である事を伝えたのです。

 

 次に、パウロは割礼を受けていても、受けていなくても、イエス様から受ける恵みに違いはないことを伝えます。これは、すでに割礼を受けている者へのメッセージです。今から割礼を受けようとすることにパウロは反対しますが、すでに割礼を受けた信徒に対しては、心配がいらないことを示すためです。なぜなら、イエス様への信仰によって義とされた者の祈ることは、「聖霊」によって実現するからです。私たちが救い主であるイエス様に結ばれていれば、私たちの祈りはイエス様を通して「聖霊」が実現に向けて働かれます。その聖霊と私たちの間には、イエス様がおられるからです。イエス様が私たちの信仰と結ばれているならば、いただける恵みは同じです。しかも、割礼というしるしが、「ある」、と「ない」の差は、イエス様と結ばれることと全く関係がないのです。何よりも大切なのは、イエス様への信仰と、イエス様に倣う愛の実践だからです。

 

 ここで、パウロはガラテヤの信徒にこのように問いかけます。

『5:7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。』

多くのガラテヤの信徒は、パウロの教えを大切に守ってきました。ですからパウロは、だれかが影で邪魔しているのだと疑っているのです。また、偽の兄弟たちが、ガラテヤの教会に潜入していることもパウロは知っているのです。そういう、少数の人たちが、騒ぎたてていたのです。その偽の兄弟たちが騒ぎたてるきっかけとなったのは、異邦人の割礼の問題です。異邦人伝道を使命として活躍しているパウロの弱点が、この異邦人の割礼にあったことも事実です。もし、割礼を強要することに賛成したら、イエス様の救いをパウロが否定していることと同じ意味になります。ですからパウロには譲るわけにはいきません。そして、その割礼の問題は、パウロに対する迫害の理由となっていました。ユダヤ人たちは、各地でパウロをこの理由を使って迫害していたのです。その背景には、パウロの活躍を妬んだユダヤ人たちの、パウロの活動への妨害があります。ですからもし、パウロが異邦人の改宗者への割礼を強要することに賛成したとしても、パウロへの迫害はやむことはなかったものと思われます。ですから、パウロはこの問題を「異邦人への使徒として立たされている自身に架せられた十字架」であると認識していました。異邦人に伝道するためにも、そしてキリスト教の教えのためにも、「割礼を強要してはいけない」と考えていたからです。パウロは、あえて迫害されることを厭わずに、異邦人伝道、キリスト教伝道というイエス様から与えられた使命を全うしようとしていたのです。

 

 「ガラテヤの教会の信徒たちを惑わしている人々には、やがて裁きがあるだろう」とパウロは、書いています。裁くのはパウロではありません。神様です。パウロは、すべての働きを神様にゆだねていたのです。それで、惑わされているガラテヤの信徒に対しても、このように言っています。

『5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。』

 パウロは、その惑わす人々を「裁きなさい」とは、言いませんでした。むしろ「愛を持って互いに仕えなさい」と、誰一人として罪を犯さないように願っているのです。パウロは、迫害を受けながらも、その迫害をしている人々に愛をもって仕えようとしています。パウロは、イエス様の示された愛を実践していました。私たちは、パウロのようには、なれません。ですから、私たちはイエス様の恵みにすがって、私たちが罪を犯すことの無いように、そして愛によって仕えあえるように、イエス様に祈っていくしかありません。その選びは、キリスト者としての自由です。イエス様にゆだねれば、私たちは互いに仕えあうことを選ぶことができるのです。イエス様にゆだねたあとは、聖霊が私たちを導いてくださいます。