マタイ13:44-52

回心した律法学者

2023年 9 3日 主日礼拝  

回心した律法学者

聖書 マタイ13:44-52

 今日の聖書の箇所は、先週に続いて「天の国のたとえ」からです。畑に宝が隠されている。普通、そんなところに出くわす機会はないので、このたとえは、畑を探せと言うことではなくて、天の国を手に入れるためには、いかなる代価も惜しくはないことを示しています。だから、天の国を見つけた人は、持っている物すべてを売り払って、その畑を買うでしょう。天の国に入りたいからです。全てを売ってしまっても、天の国の方が価値があるからと言えましょう。

 ところで、この人は、どうして畑に埋まっていた宝を見つけたのでしょうか? それは、畑で働いていたからだと想像されます。そして、その畑は自分のものではない様子から、小作人なのでしょう。もちろん、他人の物を勝手に掘り出してはいけないので、その畑を無理してでも買うわけです。そうすると、宝を見つけた人の持ち物は、畑と宝だけになります。借金まみれで、お金はありません。

 ある商人が良い真珠を探していました。今でこそ「アコヤ貝の真珠」は、養殖で大量に作りますから、比較的安価な宝なのですが、当時から偶然の産物である天然の真珠は、とても高価でした。この商人も、高価な良い真珠を見つけると、全財産を売って、良い真珠を手に入れます。この世に二つとない宝を見つけたからです。一方で、地上の財産と比べられない価値が、天の国にはあります。その小作人と、その商人が見つけた宝は地上の宝ですから、天の国には持っていけません。逆に、天の国に入れるのであれば、この世の宝などいらないのです。世の富を失っても、天の国に入りたい。天の国とは、そういう所であります。そして、天の国に入るときには、地上の宝は持って行けません。だから、その日がやって来るまで、この地上で食べる事だけ出来れば、それ以上のお金も財産も要らないのです。


 それが天の国です。天の国とは神の国であり、神の愛、神の恵み、神の憐れみ、神の赦し、神の救いのことです。だから、天の国には地上の何人も、手を出すことはできません。それにお金は、天の国では何も役に立ちません。お金は、皆が欲しがる地上の宝です。生きていく上で、とても重要だからです。でも、お金では、私たちは天国に入ることが出来ません。またお金は、私たちを守ってはくれませんし、私たちの成長を見守っているわけでもありません。お金は、私たちを愛しているわけではありません。お金は、「何があっても、私たちのそばから離れない」なんて約束はしません。そして、お金は、永遠の存在ではありません。


 今、しつこいくらいお金のことを言いました。その正反対にあるのが神様です。私たちのすべてが、神様に依存していることが説明できます。

 神様は、私たちを天国に連れて行ってくれます。また神様は、私たちを守ってくれますし、私たちの成長を見守っています。神様は、私たちを愛しています。神様は、何があっても、私たちのそばから離れません。そして、神様は、永遠の存在です。


 ところで、小作人は、畑仕事の時に宝を見つけました。一方で、商人は探していたからこそ無二の宝を見つけました。ここで、示されているのは、「天の国は日常の中にある」ことと、「天の国は探せば見つかる」ことです。

 また、イエス様は天の国をガリラヤ湖の魚を獲る漁にたとえます。当時は、投網、刺し網、地引網の漁をしていました。投網は魚の群れに向かって投げますし、刺し網では網の目のサイズの魚しか取れません。ですから、ここのたとえは地引網を引いた後の選別のことだと考えてよいでしょう。ガリラヤ湖でとれる魚は俗にペーターズフィッシュ(ペテロの魚)と呼ばれるティラピア、それからイワシ、ニゴイ、ナマズなど合計20種ほどだそうです。それを『良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。』わけです。器に入れるのは、食用に適しているものを売るためであり、売れない悪いものは、その場で投げ捨てられます。投げ捨てられる魚にとっては、何の報いもない、最後の時となるわけです。

イエス様は、たとえ話しを進めます。

『13:49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、13:50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」』


 世の終わりの時、地引網で陸にあげた魚と同じように、神様は「正しい人々と悪い者どもをより分け」ます。そして、その裁きの後、悪い人々は燃え盛る炉の中に投げ込まれるのです。一方、正しい人々はこの裁きののちに、天の国に入ります。このたとえを聞いてしまうと、天の国に行けるか不安になってしまいますね。そこで、イエス様はここで補足をします。ここが重要です。


「天の国の事を学んだ学者」のたとえです。ここの「学者」とは、「律法学者」のことです。語源的には、書記を指す言葉で、教師や学者と訳しても正しいのですが、ここでは特別な意味があります。イエス様から批判され続けていた、「人の作った掟」で人々を縛っている律法学者のことです。彼らが回心して、天の国を知ったらどうなるか?をイエス様はたとえているのです。つまり、良い人々と悪い者どもに よりわけられる。その天の国の裁きが行われます。そのとき、回心した律法学者も天の国に入ること、そして早速行動を起こす姿を示したのです。ですから、イエス様の教えは、悪い人々は滅びると ただ脅しただけではないのです。あの悪い律法学者たちでさえ、天の国を知ると回心して、良い教師になってイスラエルの家をまとめるようになる。イエス様は、そのことを教えたのです。


 『自分の倉から新しいものと古いものを取り出す』

 新しいものとは、新約聖書であり、古いものは旧約聖書です。どちらも宝であり、イエス様の福音そのものです。当時は、旧約聖書もまだ一部未完成であり、新約聖書はまだ書かれていないので姿形がありませんでした。しかし、律法と預言者(預言の書)は確立しており、イエス様は新しいものを教えていました。・・・ところで、「新しいものと古いもの」とは、「新しい福音」と「古い律法」との勘違いしている人がいるようです。これは、福音を新約聖書の中に閉じ込めてしまったことによって起きます。実は、福音は律法よりもはるかに古く、神様によって隠され、私たちの栄光のために定められたものです。そして、シナイ山で神様から律法を頂くずーっと前から、福音は存在していました。ですから、イエス様が教えた事も古くからの律法や預言者もすべてが、イエス様の福音であります。そう言うわけで、新しいものだけや、古いものだけを取り出すのは、福音の一部しか語っていないことになります。

 少し整理しますと、福音が旧約聖書に書き表されました。そして、新約聖書が出来たことによって、さらに旧約聖書に隠されている福音を明らかになったのです。ですから、旧約聖書と新約聖書の両方に含まれている真理を読み取ることが、福音の学びに必要だと言えます。回心した律法学者の語る福音は、説教自体は旧約聖書を使っていても、新しくされるのです。なぜならば、彼ら回心した律法学者には、新約聖書によってさらに真理が示されるからです。


 こうして、新約聖書によって新しく得た知識と経験は、これまでの旧約聖書で培われていたものに加わります。ただ、福音を理解しそれを知識として教えるだけでは、充分な価値があるとは言えません。それは、回心していない律法学者と同じだからです。保守的な彼らは、伝統的な律法の解釈を伝言するだけで、そこにある福音、神様の愛について鈍感だったのです。ですから、回心していない律法学者は神様の愛を求めようとしない結果、イエス様の教える「隣人を愛する」掟を受け入れないのです。福音の中心である、「神様を愛する」「隣人を愛する」ことは、この神様の愛を求めなければ、語ることが出来ません。ですから、新約聖書と旧約聖書を通して神様の愛を学びなおすことが、必要なのです。そして、その学び直しは、何度でも必要です。過去に一度学んだからと言って、真理の追究をやめてしまうならば、回心していない律法学者と同じです。彼らは、旧約聖書を学びましたが、新しい教えから学び直すこともなく保守的に同じ教えを繰り返したのです。とは言っても、人の学習には限界がありますし、完全に理解することもできません。それでも、人が聖書をよりよく理解し、その真理を学ぶことで、大きな恵みに与ることになります。そして、イエス様に祈って導いてもらうならば、そこに新しい発見あるでしょう。その発見を、教会で共有することで、次の新しい発見のきっかけとなるのです。


 一家の主人とは、回心した律法学者です。天の国を受け入れたから、回心したのです。そして、彼らは、教会の中心となっていきます。回心した律法学者は一族の主人のようでなければなりません。新約聖書と旧約聖書と言う宝物を両方とも用いて、そして古い記事からでも新しい神様のメッセージを取り次ぎ、新しい記事からも大昔から語られている福音を語るのです。

 私たちも、回心した律法学者に似ていると言えます。なにしろ、天の国のことを学んで知っているのですから。そして、私たちは、聖書を学んでいます。ですから、私たちは聖書の学者か学生ではあるのですね。長年聖書を学んでいるのであれば、聖書の教えについて年々理解が深まっていると思います。ただ、ここでお仕舞と言うような終わりはありません。新しい発見と探求を続けるわけです。これは、学びや学者の本質であります。


 そして、学者ですが、良い学者は、心の中に喜びを持ちつつ、謙遜であるものです。天の国を学んだ学者、回心した律法学者は、恐れおののきつつ神様に仕え、隣人に仕える。心から、へりくだることをも知っている。私たちは、そういう福音の学者となりたいですね。


 このイエス様の福音が、私たちの中で、そして外で輝き続けるように、祈り、励んで行きましょう。そして、この素晴らしい福音を、ひとりでも多くの方に伝えて行きましょう。イエス様に導いてくださいと祈る。そこからなら、私たちにも始められる。ですから祈りましょう。