ヨハネ2:1-11

水がめに水をいっぱい入れなさい

 

メトレテス(μετρητὰς):約39ℓ 

水がめ:運搬用のものと異なり 大き目で、100リットル前後入る石がめ

          客間から離れた庭に置かれ、清め(儀式的)に用いられます。

清めの対象:食事をする人、皿などの食器(清潔を保つための 洗いとは別)

水がめが6つある理由:そこには、カップやテーブルを清めるためのものもあれば、全身を浸す必要のある

           浄化のためのものもありました。ユダヤ人の清めの方法に倣って、特に食事の前に

           頻繁に体を洗うことによって身を清めていました。

世話役:宴会の給仕長のこと。食事・飲み物を手配し、出し方を指図します。

1.婦人よ?

 イエス様が母を呼ぶ言葉として「婦人よ」では、他人行儀で、かつ見下しているように感じてしまいます。もとの言葉は、一般的に女性を指す言葉であり、ギリシャ語には敬語はありませんから、上下関係をここから読み取ることは出来ません。母が、「ぶどう酒がなくなりました」と言った意図は、ある意味「イエス様に『早くぶどう酒を出しなさい』との指示」と読めます。これに対して、イエス様はすでにぶどう酒が無いのを知っていたのでしょう。そして、ぶどう酒を出してあげる配慮をする予定でした。ただ、今ではないのです。もう少し後から・・・ もう一つ問題があります。「しるし」を見せるのは、誰が判断するかです。母から「しるしを見せなさい」と言われて、行うものではありません。母は、イエス様の権威に干渉したわけですから、「あなたは、私の持つ権威にかかわらないでください」と答えたと言うことでしょう。そして、「もう少し後で、出すつもりですよ」

 母は、すぐに飲み込めました。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と召使たちに言いつけます。他人の家で、その召し使いを使いまわすと言うことは、普通は考えられません。ですから、親戚あるいは非常に近い人の家だったことは言えると思います。この召し使いたちは、男性ですから、普段水をはこぶことはありません。(水運びは女性の仕事だからです。)それなのに、母は召使たちに言いつけたわけですから、水をぶどう酒に変えることは、想像もついていなかったようです。しかし、彼女はイエス様が何かを起こすことを信じ、そして配慮しました。この配慮については、イエス様は「なんのかかわりがあるのか?」等とは言いませんでした。

2.水がめに水をいっぱい入れなさい

 宴会が進行していますから、清めの水は使われていました。イエス様は、かめ(複数)に水を継ぎ足すように言います。という経緯で、召使たちは「水がぶどう酒にかわった『しるし』を目撃したわけです。」もし、水を継ぎ足さずに水がめから ぶどう酒を掬って見せたら、もともと用意したものだと思うだけです。水を継ぎ足した本人が、その水がめからぶどう酒を掬うからこそ、その『しるし』となったわけです。そして、そのぶどう酒は世話人の所に運ばれます。

 世話人は途方に暮れていたか、楽観視していたかよくわかりません。本当は、ぶどう酒が無くなったのは、世話係の責任であるはずです。そして、急いで手配しなければならないのも世話人です。どうも宴会の準備は花婿に任せていて、そしてぶどう酒が無くなったと文句を言っていただけの気がします。こうして、本来の自分の役割を放棄し、花婿に責任転嫁しているこの世話人はともかく、花婿を助けなければなりません。

3.ぶどう酒に変わった水の味見

 世話人は、ぶどう酒に変わった水を受け取ると早速味見をします。これは、疑いを持っていることを示します。この家のぶどう酒は底をついた。つまり、別のぶどう酒を持ってくるはずだからです。この様子から見ると、もし悪い(若い)ぶどう酒だったら、花婿を責めたことでしょう。また、それがわかっていたから、すぐにぶどう酒を手配することができなくて、もたもたしていた可能性があります。良いぶどう酒を求めて遠くまで行っていたのかもしれません。

 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」

この世話人の言葉は、婚宴の世話人として無能であることを認めています。婚宴をうまく運営して、皆さんに満足してもらうのが仕事なのに、放棄しているからです。そして、もしこの世話人が手配をしていたら、最後には悪いぶどう酒を出すのでしょう。

4.弟子たちが信じた

 母は、「しるし」が起こるのを信じていました。召使たちは、「しるし」に驚いて、イエス様に一目も二目もおいたでしょう。ところが、世話人は何も気づいていません。花婿も何も知らないわけですが、手配の失敗を悔いたことでしょう。世話人に褒められても、何も嬉しくなかったはずです。この「しるし」で、もっとも驚き影響を受けたのは、弟子たちです。弟子たちも、婚宴に呼ばれて参加していました。ぶどう酒が無くなったことも知っています。そして、良いぶどう酒の到着。いったいどうやって手に入れたのかを考えた弟子はいたでしょう。そこには、「しるし」に立ち会った証人がいました。召使たちです。

 イエス様は、そのためにすぐにぶどう酒を用意するのではなく、弟子たちが事態を把握できるために少し待ったと言うことでしょう。


5.奇跡物語の受け止め方

 奇跡物語を読むとき、そのまま書いてある通りのことが起こったと信じる人もいます。また、有り得ないことが起こるのは「神話」だからと言うことでしょうか? 事実であると確認できないことは議論しても仕方がないと考える人もいます。それは、信仰的に聖書を読むことと、科学的に聖書を読む事の違いであります。また、「奇跡」が起こったのではなく、何事かを象徴した物語と言う考えもあります。カナの婚宴は、イエス様が初めて奇跡を起こした事、そして、イエス様が十字架で血を流すこと、を象徴していると考えるわけです。しかし、「奇跡は起こる」との信仰に、「奇跡は起こらない」との先入観とは、議論がかみ合いません。また、著者が見聞きしたことと違うことを書くことはないでしょう。ですから、「著者の目にはそのように見えた」ことを、事実として受け止めていきたいものです。