ローマ3:21-31

信仰による義


nómos – 法律。3551(ノーモス)は、a)律法(聖書)で使用され、聖書の最初の5つの書物に重点が置かれています。b)宗教的思考(神学)の任意のシステム、特にノモスがギリシャ語の定冠詞なしで発生する場合。

(by biblehub) 3:21で、先に出てくる律法は、定冠詞がないので神学のシステム、ほかは定冠詞があるのでモーセ五書のことです。従い、置き換えて原文の趣旨から3:21を読み解くと、次のようになります。

『ところが今や、「神学のシステム(律法=モーセ五書+律法学者たちが作った慣習法>を守ることによって義とされるとの従来の理解)」から離れて、神の義が示されました。しかもそのことは、「モーセ五書」(律法)と預言者(旧約聖書の預言の書)によって立証されています。』

 

1.信仰による義 

 かつてのパウロ自身が「律法を守る事によって義とされる」と考えて行動をしていました。パウロは、今その考え方にとらわれずに、イエス様の福音によって何がもたらされたのかを考えたわけです。すると、「律法を守ることによって義とされる」こととは全く離れていても、神様の義が示されていることに気づいたのです。そして、それはモーセ五書にもそして預言書にも裏付けられていたのです。

 それは、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義が与えられる」と言う事です。そこには差別がありませんので、律法を守っていることで、何らかの優位があるわけではありません。

 人はすべて罪人です。そして、義人は誰もいませんから、神の義を受けることはできないはずです。しかしながら、イエス様の十字架の贖いによって、私たちは無償で神の義を受け取っているのです。これは、神様の恵みそのものであります。

 神様は、人の罪を赦し、そして私たち罪人を義とするために、イエス様をこの世に降し、その十字架の犠牲によって私たちの罪を償われました。イエス様の贖いは、私たちの犯した罪のために、そして神の義を示すために神様がご用意なさったのです。そうしなければ、私たちは罪から逃れることができないからです。神様は、私たちの罪を赦してくださっているのです。こうして、神様は私たちを受け入れ赦すために忍耐をしてきましたが、今、そのために神様が示されたのは、神様自身が正しい方であることです。そして、イエス様を信じる者を義とされました。

 イエス様がいなければ、私たちは義とされることはなく、同時に神様自身も義と明らかにされるためにはイエス様の十字架の犠牲が必要だったのです。


 

2.どんな法則?

 3:27は、原語のわかりにくさに加えて、数十倍以上に日本語がわかりにくいので、リビングバイブルの訳を紹介します。

『それでは、救われるために、私たちは何か誇れることをしたのでしょうか。何もしていません。なぜでしょう。私たちは自分の善行によって無罪とされるのではないからです。それは、キリスト様が成し遂げてくださったことと、キリスト様に対する私たちの信仰に基づいているからです。』

 

 私たちは、律法を守るという従来言われてきた善行では、その行いを誇ることもできなければ、「救われるため」にもなりません。それは、律法を守ると言う善行をもって、私たちから罪が無くなると言うわけではないからです。罪がなくなると言う事は、イエス様の十字架の贖いによって私たちにもたらされたものでしかありません。その贖いが働くのは、私たちがイエス様を信じているからであり、そうでなければ、無罪とされることはないのです。

 

 パウロは、異邦人の伝道に召命を持っていました。ですから、神様はユダヤの神様であり、そして異邦人の神様でもあると言いました。考えてみれば、神様が唯一の神であるならば、ほかに神はいません。そして、その神様は、世界の全てを、そしてすべての者を統べる神です。ですから、誰にとっても神様は神であるのです。ですから、習慣上の割礼の有無は関係がありません。神様は、特有の民族の神ではないからです。そして、神様が義とされるのは私たちの信仰だけなのです。割礼をしていなくても、信仰によって義とされるのです。

 

 パウロは、最後に付け加えます。律法を守る事によって義とはされないと言ってはいるものの律法そのものが意味がないという事ではないのです。律法の精神は、信仰によって保たれるからです。つまり、イエス様への信仰がありさえすれば、律法を守ることと同等な善行をもたらすと言う事です。律法を守ることでは、信仰も、赦しも得られないのですが、信仰を得ると、赦しを得られるとともに、律法の精神同様に善行をすることに導かれるのです。