ルカ10:25-42

 善いサマリア人

 律法の専門家:律法学者(りっぽうがくしゃ) 律法を専門に研究し,解釈して民衆に教える教師。優れた学者は多くの弟子を持ち,最高法院の議員など,社会的に尊敬される地位にあった。(新共同訳聖書 語句解説)


サマリア人:ユダヤ教に対抗して特別な教派を形成していた,サマリア地方の人々を指す。紀元前721年アッシリアの王サルゴン2世のサマリア攻略後,アッシリアの各地から集められた人々がサマリアに移住し,自分たちの宗教とユダヤ教とを混ぜ合わせたものを信じた(王下 17:24-34)。そのことからユダヤ人はサマリア人を正統信仰から離れたものと見なし(ヨハ 8:48参照),交わりを絶っていた(ヨハ 4:9)。(新共同訳聖書 語句解説)


マルタ:ルカとヨハネにのみ出てくる女性。ヨハネによるとベタニヤ村に住んでいます。聖書からは読み取れませんが、マリアの姉だとされています。


1.善いサマリア人

 律法の専門家は、イエス様に教えてもらおうとした体をとって、試そうとしました。

「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

しかし、イエス様が、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と聞くので、

正しい答えを返すしかありませんでした。そして、「それを実行しなさい」と言われてしまいます。

つまり、「あなたは、正しく理解しているのに、行動が伴わない」と言うことです。(また、試すということは、神様を愛する事や隣人を愛する事からは、起こり得ない行動です。)イエス様を試そうとして、失敗したと思われたくないこの専門家は、「実行できない」言い訳をとっさに考えました。『私の隣人とは誰ですか?』つまり、「私がだいじにしている隣人は愛している」のだけれども、「誰かほかに隣人はいるのですか?」と言いたげです。イエス様にはバレバレです。イエス様はたとえでお答えになりました。

 半殺しになった人を祭司もレビ人も道の向こう側を通ってしまいます。そこに旅していたサマリア人が来て、その面倒を見てあげたわけです。祭司とレビ人は、レビ族であって、アロンの子孫が祭司となり、他のレビ人は、祭司の下で宗教的な行為を手伝います。そして、おそらく、血にまみれていた半殺しになった人を触ってしまうと、体の汚れで1週間公の場に出ることが出来ません。つまり、仕事にならないのです。そういう理由で、もっとも世話を焼くだろうと期待される人々は、手を差し出しませんでした。一方、サマリアはユダの人々から、忌み嫌われていました。そういった人の方が、情に厚く、困っている人に手を差し出すわけです。祭司たちは、自分の都合で隣人とならなかったのに、このサマリア人は困っている人の隣人になったのです。律法の専門家も祭司たちに似ています。自分の都合で隣人を選んでいるのであって、困っている人の隣人にはなろうとも思わないのです。むしろ、律法を守れない貧しい人たちのことをサマリア人を見るようにさげすんでいました。ですから、「隣人を愛する」という律法は、律法の専門家にとって、実行困難だったのです。まず、隣人と思うかどうか? そして、愛する対象とするかどうか? そして、実行できるかどうか? これだけの障害があったわけです。律法を守る模範となるべき律法の専門家が、「隣人を愛する」との律法を守れない中、律法を知らないサマリア人でも「隣人を愛する」という大切な律法を実行したのでした。そうであれば、律法を学ぶことよりも「隣人を愛する」ことを実行する方が、「永遠の命を受け継ぐ」ことに役立つと言えるでしょう。


2.マルタとマリア

 マルタは、イエス様一行を受け入れています。つまり、マルタはこの家の代表者なのでしょう。ここに住んでいるのは、兄弟ラザロと妹のマリアです。(もっといるかもしれませんが・・・)イエス様の一行は、12弟子と女性の弟子『イエスの母マリア、マグダラのマリア、マリア (小ヤコブとヨセの母)、マリア (クロパの妻)、サロメ、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、スサンナ』そのほかの弟子、クレオパ、クレオパの同行者(ルカ?)、マルコと呼ばれるヨハネ と計23名 以上はいます。あわせて、約30人のもてなしをするということは、どう考えてもマルタ一人では大変です。イエス様には、大勢の弟子たちがいましたから、弟子たちに手伝わせれば手は足りるでしょうが、お客さんでありますので、妹マリアに手伝わせようとします。

 マリアは、イエス様の足もとに座って、イエス様の話を聞いていました。当時は、あり得ないことです。教師が、女性に教える事はなかったからです。ところが、イエス様には女性の弟子たちがたくさん同行していて、男性の弟子たちと一緒に学んでいたようです。(最も優秀な弟子が、マグダラのマリア。)姉のマルタとしては、自分だけが忙しくもてなしていて、妹が当時の常識に反して一番前の席で熱心に聞いて居るのには、がまんがならなかったと思われます。イエス様の話の途中に割り込んでマルタは言ってしまいました。


『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』


 この言葉には、とげがあります。「妹も、もてなしをすべきなのに、なぜイエス様の話をマリアが聞いているのですか? そんな無駄なことをしていないで、私を手伝うように言ってあげてください。」という感情がこもっていたのだと思われます。


 イエス様は、答えます。『マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』マルタにとっては、踏んだり蹴ったりです。マルタは、イエス様を迎え入れました。そして、マルタの家でイエス様は、マルタの妹マリアを迎え入れていました。マルタがイエス様一行をもてなすことが大事であるように、マルタの客であるイエス様は、マリアに教えることが大事だったのです。そして、マルタにもできるならば話を聞いてもらいたかった。だけど、マルタはもてなしの方を選びました。マリアは、もてなしではなく、イエス様の話を選んだわけです。どちらが良いかと、他の人が言うことではありません。どちらを選んでも正しいのです。人それぞれの立場や価値観は異なります。だから、人に自分の選びを押し付けてはいけません。