ローマ2:17-29

神の名は汚されている

1.ユダヤ人とは? 

 ユダヤ周辺に住んでいるユダヤ人は、ユダヤ人と名乗る必要がありません。また、ユダヤ人として誇りに思うからこそ、名乗ったのでしょう。手紙の宛先はローマの信徒ですから、ローマに住んでいるユダヤ人たちが、「ユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、2:18 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。」 とあるように、ユダヤ教の案内者や教師として働くことを自負していたようです。ローマにとって、ユダヤ教は新しく入ってきた宗教です。多くのローマ人がユダヤ教やそのなかのイエス様のグループの信仰に興味を持ちました。そのせいか、ローマには伝道者がたくさんやってきていましたし、もともとユダヤ人はローマにも住んでいたのです。そうした、民族的にも宗教的にもユダヤ人であるローマにいる人々のパウロが呼び掛けています。もともとユダヤでは、民族的ユダヤ人だけではなく、宗教的なユダヤ人つまりヤハウェを唯一の神として礼拝する人のことをユダヤ人としていました。ですから、外面上のユダヤ人とは、民族的なユダヤ人や宗教的なユダヤ人のことを指しているのではなく、目に見えるところだけ整えるが、心の中では律法の要求を守っていないユダヤ人のことを指しています。

 具体的に何を問題にしているのかと言うと、ローマ人に対して律法の求めていること(しゃくし定規な生活規定を除く)を守るようにと教えているものの、教えている本人はまるで律法の求めていることを守らないと言う事です。

 なぜそのようなことが起こるのでしょうか? いろいろな原因があるでしょうが、基本的にローマの町は、巨大なローマ帝国の首都として、パンと娯楽はただで手に入ったことがあげられます。つまり、ローマの社会そのものが、属国から搾取した富で支えられ、そして享楽に満ち満ちていたと言う事です。それでも、ユダヤ人としての誇りによって、律法の要求することは守られそうなはずですが、外見だけユダヤ人なために、律法の要求を守っていなかったのです。それは、割礼という目に見えるしるしがあるために、形だけではなく心の中身までユダヤ人になろうという努力をしなかったからです。「割礼を受けているのだから、私は選ばれた民である。」そんな思いが、律法を守るように指導しながら、自分自身は、外面上は律法を守ることを教えていますが、心の中では律法の要求はことごとく無視してしまっているのです。もちろん、律法を守るべきことは本人も教えているほどなのですから、無駄だとは思っていません。しかし、すでに「神の民」となっていることの甘えが、あったのだと思われます。

 ところで、このようなことを根拠なしにパウロが手紙に書くはずもありませんから、パウロはローマの教会の情報に通じていたことが伺い知れます。また、パウロはコリントなどのローマと似たような問題のある教会を指導した経験もありますから、躊躇なく指導をしたのだと思われます。

 

2.神の名は汚されている

 ローマの教会にいるユダヤ人指導者たちに対して、パウロはその悪さ加減を追及します。

『「盗むな」と説きながら、盗むのですか。2:22 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。2:23 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。2:24 「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。』

 このまま読むと、ユダヤ人の指導者は言語道断です。このような指導者に導かれたのでは、異邦人はキリスト教の教えを「口先だけ」のものとし、真に神様が求めていることを見出せなくなってしまうでしょう。そもそもユダヤ教の指導者は、律法に通じています。それは字義的なことだけではなく、律法を学ぶことによって神様の求めていることを伺い知り、そして実践していくという神様との信頼関係が出来上がっていたはずです。それが、「律法を守れ、割礼を受けよ」との要求は異邦人に向けてするものの、自信は「律法を守らないが、割礼だけはしている」。これでは、異邦人は誰を通してイエス様の真実に近づくことができるのでしょうか? ユダヤ人の指導者の心のように、その教えを受ける異邦人の心の中も「神の名は汚されている」のです。

 こうなってくると、「割礼」を受けているかどうかなど、外見上のことであって、心の内面のことを表すしるしでは無いと言う事になります。むしろ、「割礼」の有無を無視して、「律法の要求を守る」ことを実践しているか?が、心の中で神様を信じている「しるし」であります。つまり「口」で言うだけではなく、心の内面と行動が同期しながら「律法の要求を守る」努力を続けているか?が、問われています。そして、そのこと自身が、外見上の割礼よりも意味があります。霊によって施された割礼といえるからです。