マタイ26:31-46

 ともに目を覚まして 

 1.ペトロが躓くことを予告する

  ゼカリヤ書13:7 『剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ/わたしの同僚であった男に立ち向かえと/万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。』

 これは、旧約聖書の中にあるメシアの預言です。羊飼いはメシアを、羊の群れは弟子たちを指します。神様はイエス様を打ち、弟子たちは塵尻に散っていくと言う意味です。イエス様は、この預言通りに、弟子たちは「イエス様につまずく」と言うのです。つまずくとは、小石などに足を取られて転びそうになる様を指しますが、ここでは「イエス様が妨げとなって、正しい行動や思考ができなくなる」ことを意味します。イエス様は、ゼカリヤ書に預言されたことが起こると、説明しました。でも、散ったままではなく、弟子たちはガリラヤに集まるし、そこには先にイエス様が行っていると言われました。

するとペトロもほかの弟子たちもつまずくと言われたことに反論します。

ぺトロ:「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」

イエス様:「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

ペトロ:「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。

弟子たち:皆、同じように言った。

 その結果はと言うと、イエス様が捕まると弟子たちの全てが、逃げてしまいました。ペトロに至っては、3度もイエス様のことを知らないと言いました。イエス様のおっしゃりたかったのは、散ることではなく、「先に行って待っているから集まってきなさい」との意味と思われます。しかし、弟子たちは、そのことに気づかずに、イエス様に最後までついていけると思い込んでいたのです。イエス様は、弟子たちが最後までついて来られないことを知っていて、次の機会を与えていたのでしょう。やがて、弟子たちはそのことがわかるわけです。

2.ゲツセマネの祈り

 イエス様は、ユダの裏切りによって捕まろうとしていた直前。ゲツセマネの園で祈りました。この園は、オリーブ山のオリーブを絞っていた場所のようです。イエス様は、静かな所で祈るために、エルサレムの街を抜けて、ゲツセマネの園に出たのだと思われます。イエス様は、そこで弟子たちに起きているように言って、ペトロとヤコブ、ヨハネを連れて祈りに行きます。そして、イエス様は少しだけ離れて祈りました。祈りおわって、3人の弟子たちのところに戻ると、3人の弟子たちは眠っていました。イエス様は、また祈りに行きましたが、祈って戻ってくると、3人の弟子たちは同じように眠っていました。そして、それをもう一度繰り返します。 

イエス様の祈られた内容は、「御心のままに」という内容でした。イエス様は、神様の計画、イエス様を十字架に掛けて犠牲とされることを知って、神様に祈ります。

『「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」』2回目は、『「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」』そして、最後にもう一回、2回目と同じように、確認するように祈ります。

イエス様とペトロ達が居た場所の間は、5,6mぐらいしかありません。その3人の弟子たちは、そんな近くに居ながら眠ってしまいました。イエス様の必死の祈りが感じられる距離にいるのに、寝てしまったのです。先生が必死に祈っている間、祈って待つどころか、起きて待つこともできなかったのです。しかも、3回ともです。 ここにいたのは、ペトロとヤコブ、そしてヨハネです。イエス様の側近中の側近です。先ほど、イエス様は弟子たちにこのように言っていました。『今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。』

このゲツセマネの祈りの記事から見ると、ペトロには心の準備ができていないことが現れのだと思います。ペトロだけではありません。イエス様の十字架の時、12弟子は、みなその場にはいなかったのです。と、言うよりは、恐くて逃げだしてしまったのだと思われます。

 イエス様は、「御心のままに」と神様に祈りました。イエス様の十字架の出来事が神様のご意志であれば、それを受け入れますという祈りだと言えます。そして、イエス様は、弟子たちの為にも祈られたに違いありません。この様に、イエス様に従おうと思っても、思ったようにできない不器用な弟子たち。しかし、その弟子たちを神様は用いられて、イエス様のことを伝道するのです。