ルカ6:1-11

 人のための安息日


 イエス様は、徴税人レビを弟子にし、「弟子が断食をしないのはなぜか?」との問いに、「いまはその時ではない」と答え、革袋の譬えで「新しい教えには、新しいルールで・・」と、ファリサイ派の人々や律法学者たちの意見をことごとく受け入れませんでした。イエス様は祈るために断食はします。当時は月曜日と木曜日が断食をする日でありますが、イエス様は形だけの断食は、いらないと考えていたのでしょう。ファリサイ派の人々や律法学者が守ってきているのは、目的を見失った「頑迷な掟の適用」です。罪人の救いのために罪人を食事に招く、祈るために断食をするのが当然です。罪人と食事をしてはならないとの掟によって、罪人を救おうとしないことは悪であります。また、人と家畜の休憩のために安息日があるのに、「安息日にトウモロコシの穂をこすってはいけないから、お腹を空かしたままにしておきなさい」というのでは、何のための掟?と疑問を持つものです。

1.安息日に麦の穂を摘む

 穀物畑で、とうもろこし(穀物)の頭を摘んで、こすって食べた。この穀物は、欽定訳では、「とうもろこし」と訳されています。麦であろうが、とうもろこしであろうが、畑で生食するには向いていませんので、目立ったと思われます。さらに、トウモロコシであったならば、摘んで食べている様子は遠くからでもはっきり分かったと思われます。安息日を守ることについてのファリサイ派の原則は、人は安息日を守るために造られたということでした。 これらのユダヤ教のリーダーは、安息日は聖なる日でなければならないので、すべての仕事が違法と見なすほど特別に取り締まらなけらばなりません。彼らが最初に指摘したのは、トウモロコシの穂を摘むことではなく、手でそれらをこすることでした。これは彼らの伝統に違反していました。

 彼らは安息日に働くことに反対しました。したがって、安息日の彼らの理想は、人間の飢えや人間の癒しさえも拒否するような、活動の無い日でした。この考えの根底にあるのは、「仕事は本質的に世俗的なものでありさけるべきもの」、「何もしないとは聖別すると同じ」ということでした。これを強く宣言するために、彼らはトウモロコシ畑でお腹を満たそうとした弟子たちを叱責しました。ファリサイ派の人々は、「飢餓であろうとも、労働を全くしない日を守るために、人はそれに耐えなければならない」と考えていたのです。健康を維持する欲求までふくめて、人々の欲求は否定されなければならず、これでは怠惰な安息日が約束されます。この怠惰な安息日の持ち方を神聖化し、人間には無関心なファリサイ派の人々。彼らすべては、神様の考えにどれほど反しているのでしょう!仕事自体は生きていくためにすることですから、生きていくために必要な仕事は、してはいけないと言う考えはできません。そして、怠惰に過ごすだけの日ならば、安息日は聖なる日にはならないでしょう。安息日は、聖なる日として、神様を礼拝し、そしてすべての人々や家畜の健康を保つためにできるだけ一斉に休む日であります。それが、ファリサイ派の人々の権威を示すための安息日となってしまいました。何が労働で、何が労働でないかを決める役割の彼らは、「何のための労働か?」「今必要なのか?」という視点を持たずにいては、人のための本来の安息日を実現することは、できないでしょう。

2.手の萎えた人を癒す

 安息日を守るための原則は、「安息日は人のために造られた」ということです。したがって、必要性は安息日の判断材料としなければなりません。たとえば、礼拝で司会者は礼拝の進行をするだけが役割ではありません。礼拝中に具合が悪くなる方が出たり、地震や火事で避難しなければならないときもあるのです。当然、事に対応する人を指名して礼拝を続けることも考えます。しかし、火事が迫っているのに「礼拝のために避難しない」といった判断はしませんし、「礼拝を優先して、体調が悪い人の手助けを後回しにする」という選択はありえないのであります。

 右手が萎えた人の場合、イエス様の判断は明確でした。安息日は命をはぐくむための日であるべきで、命を滅ぼすための日ではありません。言い換えれば、イエス様はこの日を人間の救いに捧げましたが、ファリサイ派の人々は、「神聖な日を、労働しない日として守らせるために、人を犠牲にする」そのように心がけていたのです。これでは、誰の利益にもなりません。ただ、あるとしたら律法を教える側のファリサイ派の人々の好きなようになることです。安息日は、これらの人たちに危険な特権を与えたことで、本来人々のためにある休息の日を、ファリサイ派の人々が主(あるじ)となる日に代えられてしまったのです。危険な特権ですから、すべての人がそれを行使して良いわけではありません。実際、ファリサイ派の人々は安息日を自分たちの支配下に置き、それを完全に台無しにしていました。ですから、安息日の主権はイエス様の手に委ねられなければなりません。イエス様は安息日を真に聖とすることができます。

 イエス様は、安息日を伝道と慈善活動のための機会にしていました。イエス様の奇跡のほとんどは安息日に行われます。イエス様は、安息日は会堂で話をし、そして集まってきた人々を癒していました。

 安息日は人のために作られています。イエス様は飢えた人を養い、病の人を癒し、人々に命のパンを与え、すべての人々を救いに導こうとされています。イエス様に倣うと、これが安息日の目的であります。お話をしたり、病の人を癒したりするのは、関心を持ってもらうための手段であり、イエス様を信じるようになってもらうこと、それが目的です。

 さて、この奇跡の物語では、「安息日になにもしない」ことと「萎えた手が癒される」ことのどちらが重要なのかを問いました。当然後者の方が重要であり、イエス様は「癒す」だけではなく、「罪を赦す」権威を持っています。ファリサイ派の人々は、イエス様が癒すために、働くところを咎めようとしていました。小さい癒しの業を邪魔することには熱心でも、もっと「人の救いや癒し」には、全く目が行かなかったのです。