ローマ8:12-17

 神の子たちとなる

2022年 6月 12日 主日礼拝

神の子たちとなる』     

聖書 ローマの信徒への手紙8:12-17 

今日は、花の日ですが、子供の教会学校がこの教会には現在ありませんので、花を警察とか消防などにプレゼントする行事は計画していません。いつか、コロナもなくなって子供の教会学校ができる時がくることを夢見でいます。今日はローマ書から、み言葉を取り次ぎます。

 

 今日の聖書の箇所で、肉について補足説明が必要です。まず、パウロは肉についてこのように語っていました。

ローマ『7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。』

これを読むと明らかに、パウロは、私たちが持っている2面性を認めています。霊的には神様を礼拝し、神様の支配下にいますが、「肉では罪の法則に仕えている」ことを隠さずに語っているのです。肉とは、生まれながらに備わっている「罪の性質」を指しています。パウロは、神様の律法に仕えていながらも、一方では、罪から逃れきれていないことを証ししているのです。

 今日の箇所の最初8章12節では、「肉に従って生きなければならない義務はない」とパウロは教えます。パウロは、私たちの持つ「肉に従ってしまう性質」に流されないように教えています。「肉に従ってしまう性質」のことをアライブ聖書では、もう少し具体的に、「自己中心な性質」と訳しています。

アライブ聖書『12だから、教会(かぞく)のみなさん。古い自己中な性質がどんなことを要求しても、それに応じる必要は全くない。』

自己中、つまり自己中心的な性質とは、そのまま「肉の思い」とか「罪の性質」と考えてよいでしょう。パウロは、「肉の思い」にしたがって生きるならば、その人は死ぬと言いました。一方で、「肉の思い」の要求に従うのではなく、霊によって、肉の思いと肉の仕業を絶てば、死ぬことはないと言う事です。

 

 人は誰でも、自らの良心と理性、そして持っている価値観を通し判断することで、「肉の思い」を断とうとするでしょう。また、当たり前のことですが、この世の法律や世間的常識の範囲で生きています。しかし、このような「こうあるべき」との考え方がしっかりとあっても、実際に自身がそのように生きているか?と言うと、はなはだ危なっかしいのです。なぜならば、言っていることとやっていることには必ずギャップがあるからです。知らず知らずのうちに、自分自身には甘く評価します。そして、都合の良い解釈や、言い訳をすることで、そのギャップをごまかすことが多いのではないでしょうか?そういう意味で、私たちは、「肉の思い」の要求には、勝つことが困難なのです。ですから、肉の仕業を絶つためには、「肉の思い」ではない、神様の霊を受け入れる必要があるのです。神様の霊を受け入れないならば、「肉の思い」を防ぐ事はたぶん無理なのです。そして、「肉の思い」の仕業に私たち自身を委ねることになってしまいます。それでは、私たちの罪の性質から永遠に逃れる事はできません。その肉の支配に陥ってしまうことを指して、パウロは、「その人は死ぬ」と言いました。「肉の思い」に従っても、死が与えられるだけならば、私たちは「肉の思い」に従う必要も義務もありません。

 ところで、聖書では「義務」と訳されていますが、その元の意味は、「借りる  ὀφείλω(オフェイロ)」ことです。お金を貸して頂くという「恵み」を受けたことで、そのお金をお返しをする義務が発生します。その元の意味から言すると、「肉の思い」によって得られる「恵み」はあるのでしょうか?たぶん、なにかは得られているでしょうが、「恵み」は何もありません。ですから、「肉の思い」のために返さなければならない、負い目や借金も全くあるはずもないのです。逆に、「肉の思い」を絶ち切って、神様を信じて神様の霊に従うならば、たくさんの恵みが与えられます。そして私たちには、神様に対する負い目ができるのです。つまり、良いものを受け取ったその「恵み」に対する借りが神様との間にできます。ですから、その借りのためにも、神様の霊に従う義務ができてくるのです。

 神様を信じている人には、神様の霊との関係において義務が伴います。それは、信仰者として恵みに与った者の責任と言えます。ですから、私たちは、「肉の思い」に打ち勝ち、霊的に生きることが求められますし、そのように生きる責任があります。その責任を頂くことも、神様から頂いたもう一つの恵みであります。

 

 では、私たち神様を礼拝する者が神様の霊に導かれるためにはどうすればいいのでしょうか?。言葉にするのは、簡単です。例えば、「み言葉によって導かれることを求める」、「聖霊に導かれる」、「みことばが与えられ、その教えに倣う」と言う事でしょうか? そして、そのために祈る。・・・ただ問題なのは、先ほどもお話ししたように、私たちが「こうあるべき」と考えたとしても、実際にできることの間にはギャップがあります。 

 そこで、パウロは私たちをこのような言葉で励まします。

『8:14 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。』

神様の霊、聖霊によって導かれている人々は、まだ行動をしていない間にでも、「すでに神の子たちなのだ」と言う事ですね。私たちは、行いを見て、その結果に目をやってしまいます。しかし、パウロはその結果を待つのではなく、聖霊によって導かれる段階で、良い結果がまだ見えてきていないときでも、そしてまだ行動に入る前からでも、神の子たちとされると宣言します。パウロは、聖霊が働かれた段階で、すでに成就する事が約束されているとの考えたのです。また、あるべき姿になったかどうかという事、つまり「結果よりも、私たちが聖霊の働きによって変わろうとした努力の方が大事」と考えられます。もし、聖霊の導きがあっても、その結果次第で「神の子たち」とされたり、そうではなかったりするのであれば、私たちは聖霊の導きがある度にに、緊張もするでしょうし、結果を恐れてしまうからです。

 聖霊は、「人を恐れに陥れる霊」ではありません。聖霊は、必ず私たちに平安をもたらします。ですから、パウロは言いました。私たちに聖霊が働けば、私たちの事を「神の子たち」ではない等とは、裁くようなことはないのです。ですから、パウロは、こう説明します。

『8:15 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。』

 アッパはアラム語でイスラエルの人々が使っていた「お父さん」という普通の言葉です。聖霊が働くことによって、私たちは必ず神の子たちとされますから、私たちは、神様を「父よ」とか「お父様」とか呼ぶことが許されているのです。それは、本当に「神の子たち」となるからだと言えます。また、聖霊は、私たちと共に働くだけではなく、神様の前で私たちが「神の子たち」であることを証明してくれます。パウロによると、聖霊は私たちと一体になって働くことで、成果を出して、その全てを神様に説明して下さるわけです。つまり、聖霊は私たちと一緒に全責任を担っているのです。全責任とは、方針を決め、実行し、成果を出し、どんな時でも逃げずにその責任を全うすることです。この責任つまり「全責任」の事を、説明責任(accoutability:accountとresponsibiliyの造語で、社会全体に対して指導者としての責任を持ち、結果も出すこと)と呼びます。時々、説明責任とは、聞かれた事の一部を説明をすることだと意図的に解釈して、責任を逃れようとする人がいます。例えば、本来の意味を無視して、「努力をしたんですけどねえ、成果が出ませんでした」とか「とにかく、説明を一回したので、私は責任を果たしました」等と、逃げてしまうようなことが時々見ることがあります。そのような人は、全責任を負っているとは言えません。そんな指導者が結構いるのですね。ところが、イエス様が送ってくださる聖霊は、そのような事はありません。全責任を担ってくださるのです。そして、必ず良い結果と、私たちに平安を導いてくださるのです。

 ここで、注目したいのは、聖霊は主体的に私たちに働きかけることです。聖霊は、その行動への方針を示してくださり、そして実行を助けます。そして聖霊は私たちを「神の子たち」となるための説明を担いますから、結果として私たちが「神の子たち」であることを保証しています。ですから、聖霊が私たちに働くときに、すでに、聖霊が全責任を担っているのです。聖霊は、働き初めから、私たちの行動に責任を持たれています。ですから、私たちは、聖霊の働きに対して、負債をたくさん持っています。この負い目は、同時にイエス様からの恵みであります。イエス様を信じる私たちが、イエス様の名によって祈ることによって、聖霊は私たちの祈っている事も、そして祈っていない事をも視野に入れながら、私たちに働きかけてくださいます。そして、私たちが祈った時に、すでに私たちは、「神の子たち」とされているのです。この負い目に対して、私たちは答えていく義務があります。すでに恵みをたくさんいただいているのですから。・・・そして、また成果を上げても、上げなくても、「神の子たち」とされていることには変わりません。そういう意味で、イエス様を信じてイエス様を通して祈ることが大事です。私たちは、「神の子たち」なのですから、神様の意思を引き継ぐ相続人だと言えます。「神の子たち」が、聖霊に導かれて生きることは、神様の相続人としてふさわしい生き方です。私たちは、神様の相続人であるために、イエス様と同じ苦労を共有しています。ですから時には、イエス様と共に苦難に遭うことが起こるでしょう。しかし、安心してください。イエス様は、私たちが乗り越えることができないような苦難を与える様な方ではないのです。また、乗り越えられない私たちを罰することもありません。ですから、イエス様が聖霊を降した段階で、私たちは「神の子たち」とされるのです。それが、ご計画だからです。

 私たちは、その恵みに与ることができますが、「耐えられないこと」までを我慢する必要はありません。なぜならば、「耐えられないこと」を我慢することそのものが、「肉の思い」だとも言えるからです。素直に、「イエス様、私はこの事に耐えられません」と祈るならば、そこから祈り続けるのがよいと思います。「耐えられない」ことであっても立派にやり遂げることは、あるでしょう。しかし、やり遂げてもやり遂げられなくても、イエス様に祈った人は「神の子たち」とされ、そして、「イエス様、私はこの事に耐えられません」と祈った人も、同じ「神の子たち」として認められるのです。しかし、神様に心が向いていないと、そうはいきません。祈ることが出来ないからです。私たちの心が、神様とは違う何かに向いているならば、少なからず「肉の思い」が入り込んでいるのです。もし、「肉の思い」によって動かされたならば、「神の子たち」とは、なれないのでしょうか?。しかしどんなに戦ったとしても、「肉の思い」は、私たちの心の中から無くなることはありません。常に「肉の思い」と戦い続ける必要があるのです。そして、何度も負けそうになるはずです。負けそうになったら、どうすれば良いのでしょうか? やはり、イエス様に祈ることです。「イエス様、肉の思いに負けそうです。導いてください」と・・・

 さて、これで、祈りの通り「肉の思い」に勝つようになるのでしょうか? 答えは、noでありyesです。すぐには、祈った通りにはならないと思います。それでも、時間がかかりますが、祈りは実現するのです。そして、祈りが実現するまでの間も、私たちは「神の子たち」であり続ける恵みを受け取る事ができます。ですから、祈って、その通りにうまくいかなくても、心配ありません。聖霊が私たち一人一人にあった働きかけをするからです。そしてその成果は約束されているのです。 

 私たちの人生のゴールは、イエス様がおられる天の国です。私たちは、イエス様への信仰によって、「神の子たち」となることが約束されています。その約束は、イエス・キリストの十字架の死という尊い犠牲があってのことです。イエス様のめぐみに感謝して、出来ることも出来ないことも、イエス様に祈って、その恵みに与らせていただきましょう。