マタイ4:18-25

私について来なさい

2024年 121日 主日礼拝  

私について来なさい

聖書 マタイ4:18-25

今日の聖書の箇所は、イエス様が荒野で悪魔の試練を受けた後、伝道を開始したころの記事です。このころ、バプテスマのヨハネが捕まったことを知ったイエス様は、カファルナウムに住むようになりました。バプテスマのヨハネは、イエス様の先駆けとして現れ、悔い改めのバプテスマを授けていた人です。バプテスマのヨハネを捕まえたのは、ガリラヤ領主のヘロデ・アンティパスです。その理由は、ヘロデ・アンティパスの結婚について、ヨハネが批判にありました。ヘロデ・アンティパスは、ナバディア王国の姫を妻として迎えていましたが、離縁をして異母兄弟の娘ヘロディアと結婚しました。実は、ヘロディアはアンティパスの親族と結婚していました。それなのに、離婚をしてガリラヤ領主の妻になったわけです。現代風にこの事件を言えば、ダブル不倫にあたるわけです。バプテスマのヨハネは、ヘロディアを批判したものですから、ヘロデ・アンティパスは、ヨハネを捕まえます。そう言った経緯で、ヘロディアはヨハネの命を狙う様になったわけです。一方で、ヘロデ・アンティパスは、バプテスマのヨハネを時々呼んで、話を聞いていました。ある意味、気に入っていたわけですね。

 そして、もう一つ 前置きがあります。バプテスマのヨハネの弟子たちのなかで、一人だけ名前がわかっている人がいます。それは、イエス様の弟子となったアンデレです。今日の聖書箇所を見ると、いきなりイエス様に言われて、弟子となったように書かれていますが、ヨハネによる福音書には、このように書かれています。

ヨハネ『1:35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。1:36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。1:37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。1:38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、1:39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。1:40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。』

 この記事は、バプテスマのヨハネが捕まる前の事であります。今日の聖書での記事は、ヨハネが捕まった後の事ですから、すでにペトロもアンデレも弟子になっていたと思われます。つまり、今日の聖書の場面は、イエス様に言われて、急に弟子になったのではなく、すでに弟子であった二人が、イエス様が伝道に旅立つことになったので、その旅に従っていったと思われます。ゼベダイの子のヤコブとヨハネについては、そういった記事がありませんが、同じような状況だったのでは?と想像できるのではないでしょうか? ここで、集めた弟子たちは、みんな漁師です。ペトロとアンデレは投網を使っていました。零細な漁師です。ゼベダイは、網本のような漁師だと言えるでしょう。複数の舟と大きな刺し網を使って漁をしていました。とは言いながら、ガリラヤの田舎町の漁師です。豊かではないことは間違いありません。また、その仕事を捨てたら、家族はどうするのか?という疑問があります。ゼべダイは、息子たちがいなくなっても雇人がいるので漁を続けられたでしょう。心配なのはペトロとアンデレですね。いさぎよく、舟と網、そして獲れた魚を捨てて、イエス様に従いました。大胆な判断だといえます。

 イエス様は無教養で田舎者 と思われるガリラヤの漁師たちを招きました。彼らは、知恵や知識が乏しくても、イエス様の招きを受け入れました。その証拠が、「漁をやめてすぐに従った」という事実であります。漁をやめたということは、家族を犠牲にしてでも従う価値があるとの判断だったと思われます。

一方、知識があって、高い教養があっても、イエス様を受け入れないならば、イエス様の知恵や導きを無駄にしてしまいます。招かれた弟子たちの中には、ファリサイ派の人、サドカイ派の人、祭司、律法学者などは一人もいません。取るに足らない者、無教養な者をイエス様は選びました。それでも、このとき従ったシモン(ペトロ)、ヤコブ、ヨハネは12使徒の中でも主要な人物となります。・・・

 『4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。』とマタイは書きました。「天の国」というのはマタイ独特の表現で、純粋に天国つまり神の国のことを指しています。

 ユダヤ人は、「旧約聖書に預言されている救い主が来て、神の国が始まる」と信じていました。ですから、「天の国が近づいた」とのメッセージには、ユダヤ人が待ち望んでいた救い主が来る事が含まれています。救い主があっての天の国です。ですから、誰が救い主なのか?の答えを求めることになります。シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、「イエス様が聖書で預言されていた王なるキリストである」こと、「救い主」であることに希望を持ちました。彼らは、すべてを投げ打ってもかまわないと思うほど、救い主に従うことに喜びを見い出したわけです。だから、網を捨て置いて、すぐにイエス様に従いました。この時のためらいは有りませんでした。この彼らの決断はまちがっていなかったと言えます。しかし、イエス様が復活する時まで、その弟子たちの心は揺れ動きます。


 さて、イエス様は「ガリラヤ地方」より広い範囲で伝道します。ユダヤの中心エルサレムや、新しくできたデカポリスや異邦人の土地ヨルダン川の向こうまで足を運びました。当時のユダヤ教の教師たちは、自分の町のシナゴーグで教えるのが普通です。イエス様の働きは三つです。第一に、各地のシナゴーグで教えたことです。シナゴーグとはユダヤ教のファリサイ派の礼拝所ですが、もともとのシナゴーグの意味は、「集まる場所」であります。ここでは礼拝するだけではありません。いわば、ユダヤ人のコミュニティーセンターだったのです。シナゴーグは、聖書の教えを聞いたり、話し合いをする場でした。そのほかには、生活相談やもめごとの調停などもしていました。 イエス様はシナゴーグで聖書を教えます。「教える」という意味は、旧約聖書をひも解いて、このみことばは、こういう意味がある、この預言の意味はこうである、そういう風な解説だと思われます。第二に、福音を宣べ伝えました。「宣べ伝える」ということは、解説や説明ではありません。宣言をしたのであります。何を宣言したか。それは、福音という良い知らせです。宣言をした福音とは、先ほど紹介したこの言葉であります。

「悔い改めよ。天の国は近づいた」

 イエス様が語られたことばは、極めてシンプルでした。のちにパウロが、解き明かしたように、「イエス様を信じるなら、天の国に入ることができる」ということであります。イエス様は、天の国をもたらす救い主です。どんな罪人でも、悔い改めてイエス様を信じるならば、その信仰によって救われ、神の国の民とされる。これが良い知らせなのです。


 第三に、イエス様の働きは、いやしです。「民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とあります。また、「イエスの評判がシリア中に広まった。」とあります。実際にイエス様がシリアに行ったわけではありません。それでも、ユダヤ人の多く住む地域を超えて遠く「ヨルダン川の向こう側から」も、イエス様のいやしを求めて集まってきたことがわかります。


 イエス様のいやしは、いくつかのことを物語っています。その一つは、イエス様の奇跡やいやしは、イエス様が神様であることの「しるし」だと言うことです。また、イエス様が聖書に預言されていた救い主であることを示しています。加えて、キリストのいやしのみわざは、神の国の到来の「しるし」であります。そして、いやしはイエス様の愛を示しています。イエス様の愛、あわれみは、このいやしによって示されました。イエス様は、人間の病だけをいやされるのではありません。たましいと心、そして肉体を含めた人そのものの存在全体をいやして平安を下さるのです。


 イエス様のもとに民衆が殺到したのは、神的な奇跡を起こすだけではなく、そのイエス様の愛に引き寄せられたことは確かだと言えるでしょう。どんな弱い人も イエス様には近づきやすかったと言えます。イエス様のもとには、罪深いとされて嫌われている者も、汚れているとして遠ざけられていた病人も、安心して近づくことができました。イエス様はえこひいきをしなかったし、人を裁きませんでした。サマリヤ人でも、ガリラヤ人でも、異邦人でも、姦淫の女でも、病人でも、心の病の人でも、わけへだてをしませんでした。イエス様はだれにでも優しく、寄り添いました。そして私たちを愛するゆえに、ついには十字架にかけられることを受け入れました。それは、私たちの罪のため、信じる者の罪を赦し、永遠のいのちを与え、御国に救い入れようとしたからです。このイエス様は、私たちの神様であり、私たちの真理であり、愛であり、いのちであり、喜びであります。


 今日、受け止めていただきたいことは、このイエス様が19節で言っている「わたしについてきなさい」という言葉です。イエス様がまことの神様であり、救い主であり、天の国の王なのであります。愛とあわれみに満ちたお方であり、罪の赦しと永遠のいのちを与え、天の国に入れてくださるイエス様が 「わたしについてきなさい」と私たちに命令しているのです。このことを覚えるならば、ついていかない理由はありません。「わたしについてきなさい」。この招きのことばを受けて、具体的に行動していきたいですね。


 イエス様を信じてついていくならば、このことばも、大事です。ついて行くのは手段。目的は何になるのでしょうか?。イエス様は言います。

「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」

このように、私たち全ての者が、人々を救いに導くための働きに招かれているのです。

 今、日本バプテスト連盟には、約300の教会があります。そのうち30教会ほどが無牧師です。無牧師ですと、その働きを信徒が分担しなければなりません。月に一回は、周辺の教会の牧師にお願いして、説教と主の晩餐式を守るということになるでしょう。そして、その交渉は、信徒がすることになります。また、それ以外の週は、信徒が礼拝説教をする等して、礼拝を維持することになります。最近は、キリスト教全体の勢いが下りぎみなので、専任の牧師は少なくなってきています。その影響と思われますが、牧師を目指す人も大変少なくなってきています。また、集会を維持できなくなって教会が消えると言う事例も出てきています。そういう流れの中にあっても、私たちはみ言葉、福音を宣べ伝え続けなければなりません。働き人は必要なのです。そして、みなさんに自分のこととしてイエス様の命令を受け止めてほしいのです。イエス様は「わたしについて来なさい」と、教会の働きに招いています。どうか、祈ってください。そして、教会の働きのために、そしてイエス様の業のために、自分なりの働き方で、イエス様について行きましょう。