詩編105:1-11

神様の約束

2021年 11月 7日 主日礼拝

神様の約束

聖書 詩編105:1-11 

 イスラエルの王となったダビデが、神の箱をエルサレムに迎え入れた時、今日の聖書のところが歌われました。その経緯は列代誌上16:1-7に書かれている通りです。

列代誌上『16:1 人々は神の箱を運び入れ、ダビデの張った天幕の中に安置し、神の御前に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。

16:2 焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ終わると、ダビデは主の御名によって民を祝福し、16:3 イスラエル人のすべてに、男にも女にも、パン一個となつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を分け与えた。16:4 彼はレビ人の幾人かを奉仕者として主の箱の前に立て、イスラエルの神、主をたたえて感謝をささげ、賛美するように命じた。』

そして、8節から今日の詩編の詩が歌われます。

この詩編105編は「ほめ讃えの歌」となっていて、神の箱(モーセの十戒を刻んだ石板が入れられた箱)をエルサレムに天幕を張って招き入れ、礼拝の時に歌われました。その内容は、神様への賛美であり、またイスラエルの民とはそもそも何者であるかを再確認するものでした。

 

まず賛美から始まります。主に感謝して、主の名を呼ぶように、そして、諸国の人々にも主の栄光を示すように会衆に呼びかけます。また、主を賛美しなさいと何度も声を掛けます。多くの驚くべき御業をなされた「主」を褒めるように。

 

驚くべき御業とは、イスラエルに対する神様の導きのことです。そして、主の聖なる名を誇りとし、主を慕い求めるイスラエルの民の心は喜びます。イスラエルの歴史は、まさに神様がなされた御業によって出来上がっています。そのことを憶えて、イスラエルの民は、神様の奇跡を喜び、その裁きを受け止めてきたのです。

そのイスラエルの歴史をたどると、アブラハムが最初になります。

創世紀『17:6 わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。17:7 わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。』

このように神様は、一方的な条件でアブラハムと契約をしました。神様は、イスラエルの民の繁栄を約束し、そしてイスラエルの民の神になる事を約束したのです。しかし、アブラハムには何も求めませんでした。普通、契約をする場合は、お互いに価値のある「ものやサービス」を交換するのですが、神様は一方的に与えてくださると約束されたのです。これが、そもそものイスラエルの民の歴史の始まりでした。

神様は、アブラハムとその子孫たちを選んだのです。そして、アブラハムとその子ども、そして孫と、千代(せんだい)もの子孫にわたってこの契約をなされたのです。一方的にです。そして、神様はアブラハムの孫であるヤコブとも同じ契約をします。

『わたしはあなたにカナンの地を/嗣業として継がせよう』

この契約は、代々引き継がれました。そして神様は「ヤコブはイスラエルと呼ばれるだろう」と予告した(創世記22:29)ので、これで、イスラエルの子孫たちにカナンの地が与えられるとの約束が成立したのです。

創世紀では、イスラエル以外の近隣の民族の先祖のことも触れています。ノアの子ヤフェトは、ギリシャ人、ローマ人の先祖です。ノアの子ハムは、エジプト人、エチオピア人、カナン人の先祖。そしてノアの子セムはアブラハムの先祖であります。アブラハムには、エジプト人奴隷ハガルとの子イシュマエルがいました。そのイシュマエルは、アラブ人の先祖です。もう一人のアブラハムの子が、妻サラとの子のイサクです。イサクの子供には、エサウとヤコブの兄弟がいました。兄エサウはエドム人の先祖です。(エドムは、後にイドマヤと呼ばれ、ユダの国に併合されます。)弟ヤコブのほうが、家督を継いでイスラエルと呼ばれ、12部族の祖となりました。12部族の各部族はヤコブの子供たちと、ヨセフの子供たちから始まっています。それから、モアブ人とアンモン人については、アブラハムの甥のロトが先祖となっています。

アダムとエバに始まり、ノア、セム、を先祖とするアブラハム。このアブラハムに始まった神様との契約が、ヤコブの時からイスラエル民族との契約になりました。しかし、イスラエルの民族にとって、カナンの地は神様から与えられた土地でありながら、簡単には手に入れることが出来ませんでした。結局大変な時間がかかってしまいました。ヤコブからダビデの時まで、12代もかかって、カナンはイスラエルの土地になったのです。

 

ダビデが神の箱をエルサレムに招き入れたときには、神様がこの約束を成就させ、イスラエルの国が堅く立たされていました。イスラエルの人々は、カナンの地を手に入れるまでの間、神様が起こされた奇跡の業を語り伝えています。そして、いま、そのひとつひとつの奇跡の業をあげて、主を賛美し始めたのです。

アブラハムは、神様の導きに従ってカナンの土地に入りました。しかし、神様は「あなたの子孫にこの土地を与える」(創12:7)と、将来のことをアブラハムに告げるのです。その後、その地に飢饉がありエジプトに向かいますが、戻ってきた後にも、アブラハムはカナンに住みました。しかし、土地を所有することがありませんでした。アブラハムは妻サラが亡くなったとき、サラの墓用に土地を買うことが出来て、ようやく土地を所有しました。(創23章)言い方を変えると、この羊を放牧して生活をしているアブラハムの一族は、カナンの地に住んでいながら墓地しか、土地を手に入れることが出来なかったのです。

イサクの代になって、イサクは、カナンの地で神様の祝福を受け、豊かになったので、近隣に住むペリシテの人々はイサクを嫉みました。そのためでしょう、ペリシテの人々はアブラハムが掘らせた井戸をふさいで、土で埋めてしまいました。(創26:15)また、ペリシテの王アビメレクは、この土地を出て行くように言います。イサクは、井戸を探して移動していきますが、井戸を掘りあてると、再びペリシテの人々と争いが起きます。そこで、ペリシテ王とイサクは争いが起こらないよう契約をしました。つまり、イサクはせっかく掘った井戸を捨て、ペリシテと離れたところに井戸を求めたのだと思われます。その時、掘り当てた井戸をベエル・シェバと言って、町の名前になっています。結局イサクの時代も、カナンに土地を得ることはできませんでした。

さてヤコブは、家長の権利を争った兄エサウと和解するときに、シケムの町の近くに祭壇を築くために土地を買い(創33:19)ました。その後ヤコブは、飢饉をのがれてエジプトに寄留しましたが、新たな土地を手に入れることは無いまま死んで、カナンの墓地に入りました。そこは、アブラハムがサラの墓のために買った土地で、アブラハムとサラ、イサクとリベカが葬られています。この2か所が、ヤコブまでの3代で手に入れた土地の全てです。

このように、天幕を張って羊を移動させながら生活するアブラハムの一族は、生活のための土地を手に入れることがありませんでした。また、ペリシテの人々などと近いところで、生活をしていましたので、ペリシテの人々が住んでいるところに近づくといさかいが起こります。ですから、ペリシテの人が町に住み、アブラハムの一族は、比較的に町から外れたところに住んでいました。また、ペリシテ等の諸民族は国を作っていましたので、他の民族の国にアブラハムの一族が寄留しているような格好になっています。また、エジプトにいた時は、宰相ヨセフの家族と言う立場ではありますが、寄留者にすぎません。そして、モーセの時代までには、イスラエルの民はみんな奴隷になっていました。イスラエルの人々は、代々、土地を持てるような立場にはなかったのです。

モーセの時代になって、約束の地であるカナンを目指してエジプトを脱出しますが、それも40年間もさまようことになります。この大きな出来事も、すべては神様が導いたものです。神様は、アブラハムに約束したことを成就させるために、イスラエルの民を導き続けました。そしてとうとう、ヨシュアをリーダーとしてカナンの地に到着し、12部族の嗣業の地を得ようと出発します。(ヨシュア「24:28 ヨシュアはこうして、民をそれぞれの嗣業の土地に送り出した。」)

とうとう、諸民族を追い出して、獲得した土地に移動したように聞こえるかもしれません。しかし、士師記を見てみると、イスラエルの民はカナン人やペリシテ人と混在したまま住んでいますので、実態はカナンに入植した以上のことではなかったようです。士師記の時代にイスラエルの民が、自分の畑を持つことになったのは確かですが、カナンの地はイスラエルの民の土地とは言えませんでした。そして、どの民族も王を中心として国を作っていますが、イスラエルには国とか王という概念はありませんでした。すべてを神が支配しているとの考えからです。つまり、イスラエル民族は、組織的には統制されないわけです。ですから、他の民族が作った法律の下、その他の民族の土地に寄留すると言う意味で、アブラハム以来何も変わっていないのです。預言者が立てられ、士師と言う名の民族を代表して民を裁く人がいましたが、それでは、他の民族の国とは力の差が大きかったのです。そのため、イスラエルの民は強い王様に支配される国となる事を望みました。そうして立てられたのが、サウル王です。残念ながら、これはうまくいきませんでした。サウル王は、ペリシテなどと戦いましたが、最後はペリシテに敗れて息子ヨナタンと共に討ち死にしてしまいます。強い国家を作ることに失敗したのです。そのサウル王の次がダビデ王です。ダビデは、神様にいつでも従順でしたし、預言者サムエルを通して神様の言葉に耳を傾けました。そうして、神様に導かれてこの詩編105編の賛美をする時が与えられたのです。国が堅く立ち、そして神の箱をダビデの町エルサレムに迎えることが出来たのです。アブラハムの時代からの約束を神様は守ったことに感謝、そして国の中心であるエルサレムに神の箱を迎えることによって、神様がイスラエルをもっともっと祝福してくれることを信じて祈ったのです。

 

さて、イスラエルの民とは何者なのでしょうか? それは、神様が選んだ民、神様がアブラハム、イサク、ヤコブと契約して「カナンの地を嗣業として継がせる」ことを約束した。これが、イスラエル民族の歴史の始まりでありました。そして、イスラエル民族の歴史には必ず神様が関与しています。なぜなら、神様はイスラエル民族にカナンの土地を約束されたからです。その約束を守り 進めるために、神様はいろんな場面で奇跡を起こし、そして預言者たちを通して民を導きました。この神様の働きは、神様の一方的な愛によるものです。

このように、イスラエルの為に良くしてくださった神様は、その裁きを全地に行き巡らせておられます。イスラエルの神様は全地の主なのです。こういう考えは、詩編の中にも何度も出てきます。イスラエルの神様は、イスラエルの民を選んで民を導きましたし、イスラエルの民だけに律法や預言書を教えていた時代もありました。しかし、モーセ以来、特にイエス様が来られてからは、神様は、すべての人々のための神様であり続けています。

この約束は、アブラハムの生涯だけでなく遥か後(のち)にまで続きます。実に私たちが生きている現在、そして未来にまで至る、神様のご計画であったのです。この壮大な御計画を、ただ一人アブラハムに神様は告げられ、そして、その息子イサクにも告げられ、孫ヤコブのときその約束を確立しました。

 

 そしてこの『カナンの地を/嗣業として継がせよう』との約束は私たちに直接関係する言葉です。「神様は、あなたの子孫を代々、祝福される」という意味に受け取ることが出来るからです。その祝福は、アブラハムの子孫、イエス・キリストによって、強められたのです。そして、イスラエルに与えられた神様の祝福が、イエス様を信じる異邦人にまで及びました。私たちがイエス様を信じているということは、そこに祝福があり、私たちの子供たちもその祝福を受けると言う事です。これも、紀元前2000年頃に神様が語られた、アブラハムへの約束の結果なのです。このことに感謝して、神様のご計画に委ね、神様の一方的な愛に答えてまいりましょう。