ヨハネ6:1-15

少しも無駄にならないように

 

1.群衆が集まる

 場所はベトサイダでした。マタイによる福音書では、バプテスマのヨハネがヘロデ王によって捕らえられたことを聞いて、イエス様がカファルナウムへ行ったとあります。神様から遣わされた偉大な預言者が捕らえられたとの報告に、イエス・キリストは、静かな場所で父なる神様に祈ろうとしたのです。

 またマルコによる福音書では、伝道活動をしてきた12弟子たちに休息を与えるために、と記されています。その両方の目的で弟子たちと舟に乗り、ガリラヤ湖(小川の河口周辺)を渡って静かな場所へ行きます。

 しかし、そこにも多くの群衆が追いかけてきました。メシアを待ち望む人たち、病気で苦しむ人たち、を含む群衆が、イエス様を一目見ようと後を追って、岸伝いに先回りしたのです。その数は男性だけで五千人。女性子供を含めると一万人以上だったでしょう。静かな所で祈りたいというイエス様は、邪魔されてしまったのです。計画通りに進まないことには苛立ってしまうものです。しかし、共観福音書では、イエス様は彼らを哀れみ、病人たちを癒し、神様のことばを語ったと記されています。そして夕方までそれを続けたのです。またさらに、食事を心配して、フィリポに「どこでパンを買えばよいのか?」を聞きます。

2.弟子たちを試す

 フィリポはすぐに計算をします。すると200デナリ(約160万円・・・1人分160円×10,000人)という多額となります。また寂しいところなので、どうやっても手配しようがありませんでした。

①そんな大金を持っているわけがない

②人里から遠いため、パンなど売っている所はない

③すぐに一万個のパンを手に入れなければならない

 この状況を考えるなら、誰もが不可能だとあきらめてしまいます。しかし、イエス様はフィリポを試されたとあります。フィリポはすでにイエス様が行なわれた数々のしるし、奇跡を見てきました。そしてフィリポ自身も12弟子の一人として働き、悪霊を追い出し、人々の病気を癒してきたのです。そのフィリポが自分で解決できない問題に対して、どうするのかをイエス様は試したのでしょう。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えました。「買えません」と直接的に答えることをさけ、「イエス様お金が無いでしょう!」と、自分の努力不足ではなく、「イエス様が無理難題を言う」のが悪いと言う意味であります。フィリポの答えは不合格です。理性が先に立ち、信仰をもって事に当たろうとしなかったからです。

 次はアンデレです。アンデレは、「フィリポへの試し」であるのに、すでに行動していました。一人の少年をイエス様のもとへ連れて来ました。

「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(原語のニュアンス:何になるのでしょう?、どこまでいきわたるでしょう?)

 アンデレは、能動的に答え、そして実際に少ないながらパンと小魚を見つけてきました。その点でフィリポより良い答えでしたが、自身で奇跡を起こそうとしなかったし、イエス様にも求めませんでした。

3.奇跡を起こす

 イエス様は群衆をその場に座らせ、パンを取り、感謝をささげて人々に分け与えました。不思議なことにパンと魚はなくなりませんでした。そして、すべての人が食べて満腹しても余ります。その光景はどんなであったでしょう。人々は驚嘆したに違いありません。熱狂した群衆は、イエス様を王にするため無理やり連れて行こうとしたほどでした。

 この奇跡の示す意味を考えてみましょう。

 第一にこの奇跡は、人にできる事ではありません。ですから、イエス様の神性を如実に表すものであります。旧約の記事でも、神様は預言者たちを奇跡を通して助けました。ですから、旧約の預言者と同等以上の存在がイエス様であることが、ここで明示されました。

 第二に、神様の性質です。イエス様は、寂しいところで、祈りたかった。しかし、群衆が押し寄せてきたので、群衆の希望通り、お話をして、病を癒しました。そうしているうちに、お腹が空いただろうなという時間になってしまいました。そして、そのまま返すわけにいかなかったのです。それでは、食事を出してあげよう。・・・一方的に、私たちが必要とするものを与えてくださるのがイエス様であり、神様なのです。

 この奇跡物語を読むときに、このまま信じる人もいますが、「みんなが持ってきた食物を分け合った」とむりにでも奇跡がなかった可能性を引き出してくる人もいます。また、「イエス様の教えが群衆みんなにいきわたったことを譬えている」との解釈もあります。「分け合った」説をとる人は、フィリポに似ていますね。イエス様の試験には、不合格でしょう。「教えがいきわたった」説をとるならば、アンデレに似ています。奇跡が起こらないとの前提ですから、やはり不合格です。

 ここには、「奇跡は起こらない」≒「イエス様は神様から出たものではない」 ぐらいのインパクトがあります。そもそも、最初にこの福音書を書いたマルコは、この奇跡をイエス様の教えと置き換えて読めることから採用したこともあるでしょうし、少数であっても持っていたパンを分け合った人もいたでしょう。しかし、この奇跡には1万人の証人がいることを忘れてはなりません。そして、神様は何でもできることを無視してはいけません。自分の限界を神様の業に当てはめるのではなく、神様を信じましょう。